一 推薦状
真壁悠斗が推薦状を頼みに来たのは、『内ヶ島伝説』の調査報告を公開してから二週間後だった。
金曜の五限が終わり、学生たちが教室を出ていったあとである。
鴨田茂樹はプロジェクターの電源を切り、誰も提出していない出席票を数えていた。受講者は十二人。出席票は十三枚あった。
怪異を扱う講義では、そういう些細な数え違いにいちいち意味を与えないほうがいい。
十二枚になるまで数え直した。
「先生」
真壁は教卓の前に立っていた。
「K大学の大学院を受けようと思っています」
鴨田の手が止まった。
「そうですか」
「久世直哉先生の研究室です。生成伝承の研究を続けたいと思って」
「生成伝承という語を、私は採用していません」
「分かっています。でも、ほかに呼び方がないので」
「呼び方がないなら、呼ばなければいい」
「それだと研究計画書が書けません」
「大学院とは、書けないものを書く場所です」
真壁は少し困った顔をした。
講義中の鴨田は、しばしばこういう言い方をした。学生の思考を促すためなのか、単に答えたくないのかは、本人にも分かっていないようだった。
「推薦状を、お願いできますか」
鴨田は出席票を封筒へしまった。
「断ります」
「どうしてです」
「あの大学は勧めません」
「先生がいた大学ですよね」
「だからです」
「久世先生は、先生の教え子だったと聞きました」
鴨田は顔を上げた。
「誰から」
「本人からです」
「いつ会ったんです」
「オンラインです。内ヶ島伝説の報告書を読んで、連絡をくれました」
教室の後ろから、椅子を引く音がした。
三輪すずがまだ残っていた。
ノートパソコンの画面を見ながら、イヤホンを片方外した。
「K大学って、学生をスカウトするんですね」
「盗み聞きはやめなさい」
「録音もしてません」
「誰も訊いていません」
「してないときだけ疑われるので」
真壁は鞄から、印刷された研究計画書を出した。
表題には、
生成AI時代における地域伝承の遡及的形成
とあった。
鴨田は受け取らなかった。
「先生」
「推薦できません」
「僕の研究が駄目だからですか」
「K大学だからです」
「同じじゃないですか」
真壁の声が少し大きくなった。
「先生は、自分が辞めた大学だから嫌なだけじゃないですか」
三輪が画面から顔を上げた。
教室の空気が変わった。
鴨田は怒らなかった。
怒るときのほうが、まだ返事は早かった。
「私は、あの大学から追放されたんです」
やがて、いつものように言った。
冗談めいた口調だった。
「学問の自由を守った結果、教授会から疎まれましてね」
「それ、本当なんですか」
三輪が訊いた。
「何です」
「追放されたって話」
「学生が教員の経歴を疑うものではありません」
「懲戒ですか」
「違います」
「解雇?」
「違う」
「雇い止め?」
「違います」
「じゃあ、自分で辞めたんじゃないですか」
鴨田は答えなかった。
その沈黙を破ったのは、廊下から入ってきた十三湊かなえだった。
手に、大学の購買で買った紙コップを二つ持っている。
「先生、郵便」
一つを鴨田へ渡し、もう一方の手で茶封筒を教卓へ置いた。
差出人はK大学人文学部。
封筒には赤い文字で、
要本人開封
と印刷されていた。
「どうしてあなたが持っているんです」
「事務室の人に、先生の家族ですって言った」
「違います」
「友達ですって言ったら渡してくれなかった」
「家族なら渡すのも問題でしょう」
「開けないの」
鴨田は封筒を裏返した。
糊は古く、端が黄ばんでいた。
だが消印は三日前だった。
中には、K大学の職員証が入っていた。
鴨田茂樹。
顔写真は現在のものだった。
所属欄には、
人文学部民俗文化学科 准教授
有効期限は、その年度の三月三十一日。
まだ五か月残っていた。
真壁が、息を呑んだ。
「先生、戻るんですか」
「戻りません」
鴨田は即答した。
職員証の下には、一枚の紙があった。
研究室明渡しのお願い
旧人文学部研究棟の解体に伴い、鴨田准教授使用室内の私物を撤去されたく――。
「准教授」
三輪が読んだ。
「准教授ですね」
「見れば分かります」
「追放されたのに、研究室残ってるんですか」
鴨田は紙を折った。
「事務上の誤りです」
かなえが職員証を取り上げた。
裏面を見て、鴨田へ返した。
「これ、新しいよ」
「何がです」
「傷がない。今つくったやつ」
「写真も今の先生です」
真壁が言った。
三輪はノートパソコンを開き、K大学の教員一覧を検索した。
画面を鴨田へ向ける。
人文学部民俗文化学科。
教授、准教授、講師。
そこに、鴨田茂樹の名があった。
写真はなかった。
専門分野は、怪異伝承論、災害民俗学、地域記憶研究。
担当科目は、
民俗学特殊講義Ⅰ
フィールドワーク演習
怪異と地域資源論
鴨田が現在の大学で担当している講義と、同じ題名だった。
真壁が言った。
「K大学の現役教員じゃないですか」
「違います」
「大学のサイトに書いてあります」
「間違っています」
三輪が、画面を更新した。
鴨田茂樹の名は消えていた。
教員一覧には、空白が一つ残っていた。
教授と講師のあいだに、写真も名前もない枠がある。
役職だけが表示されていた。
准教授
かなえが紙コップを鴨田へ押しつけた。
「行ったほうがよさそうだね」
鴨田は蓋を開けた。
ブラックコーヒーのはずだった。
中には水しか入っていなかった。




