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境界のパスティーシュ  作者: 島流しパプリカ
フィールドノート Ⅰ 内ヶ島伝説

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十三 フィールドノート

十二月の終わり、三輪すずから大容量のデータが送られてきた。


〈整理してたら、初期ファイルの元が見つかりました〉


添付されていたのは、古い音声ファイルだった。


形式はデジタル化されたカセットテープ。


ファイル名は、


K-FIELD-08-11-29


作成者情報は空欄。


保存場所は、K大学旧民俗学研究室のアーカイブ。


鴨田は再生しなかった。


一時間、机の上に置いた。


その後、かなえへ連絡した。


二人で聴いた。


最初に風の音がした。


次に、若い男の声。


『二〇〇八年十一月二十九日。岐阜県大野郡白川村。帰雲城関連伝承の予備調査』


鴨田の声だった。


現在より少し高い。


だが、話す前に短く息を吸う癖も、固有名詞だけ明瞭に発音する癖も同じだった。


かなえは何も言わなかった。


録音には、学生らしい男女の声も入っていた。


内容のない雑談。


寒い。


昼は何を食べる。


録音機の電池が少ない。


若い鴨田が言った。


『君たち、付き合ってるのかね』


男女が同時に否定した。


かなえが、鴨田を見た。


鴨田は画面から目を離さなかった。


やがて、老女の声が入った。


誰の声かは分からない。


野谷ハツに似ていたが、もっと若かった。


『鬼の話なんかない』


若い鴨田が質問する。


『では、山中に封じられたものについては』


『ない』


『内ヶ島氏との関係は』


『ない』


『帰る雲の下で、名前を呼んではいけないという言葉は』


沈黙。


長い沈黙だった。


『先生』


老女が言った。


『それ、どこで聞いた』


『先ほど、あなたが』


『言うとらん』


『録音されています』


『なら、録音が言うたんや』


若い鴨田が笑った。


『仮に、この一連の話へ名称をつけるとすれば』


『つけるな』


『比較と記録のためです』


『つけたら、あんたは忘れる』


『記録は残ります』


老女も笑った。


『ほうか』


少し間があった。


『なら今度は、記録のほうがあんたになる』


音声はそこで終わっていなかった。


椅子を引く音。


紙をめくる音。


若い鴨田が、一人で何かを書いている。


『仮称』


ペンが紙を擦る。


『内ヶ島伝説』


録音が切れた。


部屋の中で、暖房の音だけがしていた。


かなえが訊いた。


「覚えてない?」


「覚えていません」


「声は先生だよ」


「分かっています」


「学生は?」


「分かりません」


「K大学にいた頃?」


鴨田は答えなかった。


翌日、二人はK大学へ行った。


鴨田が辞めて以来、一度も入っていなかった旧研究棟の地下に、未整理資料の保管庫があった。


管理担当者は、鴨田を見るなり言った。


「ようやく引き取りに来たんですか」


「何をです」


「先生が預けた箱ですよ」


棚の奥から、段ボール箱が出された。


側面に、鴨田の筆跡で書かれていた。


帰雲・未公表


中にはカセットテープが三本。


フィールドノートが二冊。


薄い報告書が一部。


鴨田は一冊目のノートを開いた。


自分の字だった。


二〇〇八年十一月二十九日。


白川村。


野谷ハツ聞き取り。


学生二名同行。


欄外には、何度も同じ文が書かれている。


名前をつけないこと。


次のページには、


内ヶ島伝説


と大きく書かれていた。


その下に、強い筆圧で線が引かれている。


かなえが報告書を開いた。


「先生」


鴨田は顔を上げなかった。


「私の名前がある」


報告書の末尾。


調査協力者の欄に、


十三湊かなえ


と記されていた。


日付は二〇〇九年一月。


二人が初めて会うより、十数年前だった。


かなえは笑わなかった。


「同姓同名?」


「その可能性はあります」


「この名字で?」


鴨田は報告書を受け取った。


最後のページに、手書きの追記があった。


自分の字だった。


本稿を公表しない。

名称を与えた時点で、調査者はすでに対象の一部となっている。


再調査が必要となった場合、十三湊かなえを同行させること。

彼女だけは、私を忘れない。


鴨田は文章を二度読んだ。


三度目は読まなかった。


かなえが、低い声で訊いた。


「先生、K大学で何があったの」


いつもの答えが口まで出た。


追放されたんですよ。


教授会と揉めましてね。


学問の自由を守った結果です。


どれも、何度も使ってきた言葉だった。


しかしその日は、言えなかった。


報告書の表紙には、彼がいまも失ったもののように語る肩書きが、黒々と印字されていた。


K大学准教授 鴨田茂樹

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