一 ない話
「そんな話は、ない」
野谷ハツは、三度目にも同じように答えた。
九十二歳だった。腰は曲がっていたが、耳はよく、質問の意味も分かっていた。撮影用の照明を眩しそうに眺め、縁側に置かれたタブレットへ顔を向けた。
タブレットの画面では、白い顔をした子供が笑っていた。頭に二本の角がある。白川村の古い衣装を模した服を着て、頬だけが不自然に赤い。
音声案内AI。
村の昔話を教えてくれる、という触れ込みだった。
――内ヶ島氏は、鬼の血を引いていたと伝えられていますか。
機械の声が訊いた。
「知らん」
――帰雲城が滅びた夜、山から鬼が下りてきたという話はありませんか。
「ない」
――では、次の言葉に聞き覚えはありますか。
一拍、音が途切れた。
そのとき岩瀬隆は、操作用のノートパソコンから手を離した。
その質問は台本になかった。
――帰る雲の下では、名前を呼ぶな。
野谷ハツの顔から、皺だけを残して表情が消えた。
撮影をしていた村役場の職員が、カメラを下ろした。
「おばあちゃん?」
ハツはタブレットを見ていた。
画面の子供は笑っている。
「それは」
ハツが言った。
声が、急に若くなったように聞こえた。
「それは、口にしたらあかん」
岩瀬はノートパソコンを引き寄せた。入力履歴を開く。質問文を送信した記録がない。参照元も表示されていない。
――なぜですか。
機械が訊いた。
「名前のあるもんは、人が連れていく」
ハツは言った。
「名前のないもんは、人を連れていく」
撮影スタッフの一人が、小さく笑った。
老人の言葉は、意味が分からないほど昔話らしく聞こえる。
岩瀬だけが笑わなかった。
――それは、内ヶ島伝説のことですか。
画面の中で、角を生やした子供が首を傾けた。
野谷ハツはしばらく黙っていた。
「誰や」
やがて、岩瀬を見て言った。
「おまえ、誰やった」
「岩瀬です。昨日もお会いしました」
「違う」
ハツは首を振った。
「昨日おった人と、顔は同じやけど」
その日の夜、岩瀬隆はプロジェクトの共有チャットに一件だけ書き込んだ。
〈最初の資料を入れたのは誰ですか〉
返事はなかった。
翌朝、彼は帰雲山の旧調査坑で死んでいた。




