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境界のパスティーシュ  作者: 島流しパプリカ
ハルシネイト Ⅲ

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∞ 6

 産戸の入口は、思っていたより狭かった。


 膝まで海へ入り、身を屈めなければ通れない。


 中はすぐ暗くなった。


 蓮は防水ライトをつけた。


 岩肌が濡れて光った。


 足元には小さな貝殻と、観光客が投げた硬貨が沈んでいた。


「凪ちゃん」


 呼びかけてから、蓮は止まった。


 名前を呼ぶな。


 迷信を信じたわけではない。


 ただ、洞穴の中で少女の名前を口にすると、別の誰かまで振り向くような気がした。


「聞こえる?」


 声を変えた。


 返事はない。


 洞穴は奥で二つに分かれていた。


 右は行き止まり。左はさらに狭く、低い。


 水面へ、赤いものが浮かんでいた。


 小さなスポンジの球だった。


 蓮は拾った。


 かなえのケースからなくなったものかもしれない。


 手の中で水を絞ると、球はすぐ元の形へ戻った。


 奥から、歌が聞こえた。


 子どもの声だった。


 一つ、ひらいて。

 二つ、しずんで。

 三つ、なくして。

 四つ、ひろって。


 蓮は左の穴へ入った。


 ロープが岩へ擦れた。


 五つ、わすれて。

 六つ、おもって。

 七つ、かえって。


 そこで歌は止まった。


 空洞があった。


 天井の割れ目から細い光が落ちている。


 凪は岩の上に座っていた。


 その向かいに、赤い服の女がいた。


 若い女にも、老婆にも見えた。


 濡れた髪が顔へ貼りつき、手には二枚貝を持っていた。


 蓮がライトを向けた瞬間、女の姿は岩の影と区別できなくなった。


「何してるの」


 蓮は凪へ言った。


「待ってた」


「誰を」


「この人の子」


 凪は、誰もいない岩を指さした。


「もう帰ったよ」


「どこに」


「まだ来てないところ」


 蓮は少女を抱き上げようとした。


 凪が首を振った。


「八まで言ってない」


「いいから帰るよ」


「八まで言わないと、目を開けちゃ駄目だって」


「誰が言ったの」


「赤い人」


 洞穴の奥から、大きな音がした。


 潮が入ってきた。


 水位が足首から膝へ上がった。


 入口の方でロープが引かれた。


 一回。


 外の人間が、状況を確かめている。


 蓮は凪を抱き、ロープを自分と少女の身体へ回した。


「目、閉じて」


「怖くないよ」


「私は怖い」


 凪は蓮を見た。


「大人なのに?」


「大人だから」


 凪は目を閉じた。


 蓮も閉じた。


 八年前。


 冷たい海。

 岸壁の梯子。

 背中を押した慎二の手。


 八つ数えたら、目を開けろ。


 あの日、蓮は言われたとおりに目を閉じた。


 一。

 二。

 三。


 八で目を開けたとき、慎二はいなかった。


 それ以来、八という数字の向こう側には、誰かの不在があると思っていた。


 蓮は凪を抱き直した。


「数えるよ」


「うん」


「一」


 水が腰まで来た。


「二」


 ロープを強く握った。


「三」


 慎二の店のシャッターを思い出した。


「四」


 英語の間違った答え。


「五」


 放送席で泣いた真紀。


「六」


 自分が行かなかった大学。


「七」


 誰かの代わりに生きているつもりで、何も選ばなかった八年間。


 八。


 蓮は目を開けた。


 慎二はいなかった。


 赤い女もいなかった。


 岩の割れ目と、上がってくる水と、腕の中の凪がいた。


 助けるべき子どもがいた。


 蓮はロープを二度引いた。

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