聖者 8
八月一日、真紀はいつもの時間に放送席へ座った。
机の引き出しには、赤い球が三つ入っていた。
一つ、二つ、三つ。
数えてから閉めた。
番組後半、リスナーからのメッセージを読んだ。
ラジオネームは空欄だった。
〈人に死ねと言われました。言った人は、たぶん本気じゃなかったと思います。でも、本気じゃなければ、言っていいのでしょうか〉
真紀は原稿から顔を上げた。
赤いランプの向こうに、小川がいた。
答えを待っていた。
「よくないです」
真紀は言った。
「よくないですけど、人は言います。腹が立ったときや、ふざけているときや、好きな相手に、言ってはいけないことを言います」
台本にはない言葉だった。
「言葉には意味があります。でも、言った人と聞いた人のあいだにしかない意味もあります。その意味は、どちらかがいなくなると、残った人には持ちきれなくなることがあります」
小川が、CMまで一分の札を上げた。
「だから、死ねと言われて苦しかったら、言った人の気持ちを考えなくていいです。言われた自分が苦しかった。それだけで十分です」
真紀は息を吸った。
「でも、死ねと言った人へ。相手が生きているうちなら、その言葉を別の言葉に言い直せます」
あと三十秒。
「相手が死んだあとでは、もう言い直せません」
小川が十秒前から指を折った。
「今日、浪越はよく晴れています。海へ行く人は、古い防波堤へ近づかないようにしてください」
五。
「それでは一曲お送りします」
四。
「ラジオネーム、潮騒十七歳さんからのリクエストです」
三。
「黒瀬慎二さんが嫌いだった曲」
二。
「理由は、イントロが長すぎるから、だそうです」
一。
真紀は音楽を出した。
赤いランプが消えた。
イントロは、本当に長かった。
ガラスの向こうで、小川が目を拭くふりをしていた。
「泣いてんの」
真紀がトークバックで訊いた。
「目から風が出ました」
「死ね」
小川が笑った。
真紀も笑った。
ヘッドホンの奥で、誰かが小さく、
お前がな、
と言った気がした。
聞き返さなかった。
夏の言葉は、死者より長く生きる。
だからせめて、生きているうちに、何度でも言い直さなければならない。
真紀はマイクの入っていない放送席で、慎二に向かって言った。
「またね」
引き出しの中で、赤い球が一つ、音もなく増えた。




