聖者 7
八月が近づくと、浪越の海にはクラゲが増えた。
海水浴場には遊泳注意の旗が立ち、砂浜には潰れたペットボトルや、片方だけのサンダルが流れ着いた。
仏ヶ浦では、盆の灯籠を組み立てる作業が始まっていた。
真紀は慎二の店から持ち出した二つの赤い球を、ポケットへ入れて浜へ行った。
夜の海は暗かった。
怖いというより、何も考えていない大きなものに見えた。
鴨田の話では、盆前の八日間、海で死者の名を呼んではならない。
十三湊は、海には文法がないと言った。
真紀は波打ち際まで歩いた。
靴を脱がなかったので、一度目の波で足首まで濡れた。
「慎二」
呼んだ。
波の音しか返らなかった。
「黒瀬慎二」
もう一度呼んだ。
名前は、放送原稿で読むより短かった。
「お前、死んだよ」
言う必要のないことを言った。
「私が死ねって言ったからじゃないよね」
答えはなかった。
「違うって言えよ」
波が引いた。
砂が靴の下から崩れ、身体が少し海へ引かれた。
真紀はポケットから赤い球を取り出した。
二つあったはずが、三つになっていた。
暗い中でも、赤いことだけは分かった。
「増えてるじゃん」
真紀は笑った。
「何なんだよ、これ」
背後で砂を踏む音がした。
振り向くと、蓮が立っていた。
「何してんの」
真紀が訊いた。
「それ、こっちの台詞です」
「死者の名前呼んでた」
「駄目なんじゃないですか」
「もう呼んだ」
「返事しました?」
「しない」
「黒瀬さん、そういうとこあります」
「死んでまで感じ悪い」
蓮は真紀の横へ来た。
海を見た。
「俺も、呼んでいいですか」
「好きにすれば」
蓮は口を開いたが、名前を言わなかった。
代わりに、ゆっくり数え始めた。
「一」
真紀は目を閉じた。
「二」
波が来た。
「三」
濡れた靴が重くなった。
「四」
遠くで車が走っていた。
「五」
慎二の店の油の匂いを思い出した。
「六」
裸の腹に扇風機の風を当てていた。
「七」
また明日、と言った。
「八」
真紀は目を開けた。
慎二はいなかった。
海と、蓮と、組み立て途中の灯籠があった。
少し離れた砂浜で、小さな子どもが赤いボールを追いかけていた。若い母親が、転ぶよ、と言いながら後を歩いている。
子どもがボールを蹴った。
ボールは波打ち際まで転がり、真紀の濡れた靴に当たった。
真紀は拾い上げた。
ポケットの中には、三つの赤い球があった。
手の中には、もう一つ。
「四つになった」
「何がですか」
「知らない」
真紀は子どもへボールを投げ返した。
子どもは受け取れず、砂の上に尻もちをついた。
母親が笑った。
子どもも笑った。
慎二の声ではなかった。
似ていなかった。
それでよかった。




