聖者 4
慎二の店には、死んだ人間の気配より、暑さと油の匂いが残っていた。
シャッターを開けると、店の奥からラジオの音がした。
真紀の声だった。
録音ではない。
その日の『潮目をこえて』が、作業台の古いラジオから流れていた。
慎二はいつも聞いていたのだろう。
真紀は自分の声が嫌いだった。放送中の声ではない。放送を終えて、知らない場所で流れている自分の声が嫌いだった。
公共物になった声には、本人の身体がない。
誰かの台所や、工場や、トラックの中で、勝手に明るく喋り続ける。
真紀はラジオを切った。
机の引き出しには、請求書と未払いの公共料金と、潰れた煙草の箱が入っていた。
避妊具も一箱あった。
十二個入りで、残りは一つだった。
「馬鹿」
声に出すと、事務所が少しだけ以前の場所へ戻った。
壁には、海岸の地図が貼られていた。
仏ヶ浦の旧防波堤に赤い丸がつけられ、その横に、
流れ東へ。近づくな。
と慎二の字で書いてあった。
机の上の英語の参考書には、藤原蓮と名前があった。
ページの間から、折り畳まれた紙が落ちた。
印刷されたSNSの画面だった。
――気持ち悪い。
――学校来んな。
――〇ね。
――海にでも飛び込め。
最初の文字は、白い丸で隠されていた。
何の字が入るのかは、誰にでも分かった。
見えないほうが、かえって大きく見えた。
真紀は紙を机に戻した。
参考書の後ろには、大学の入試問題を印刷したものが挟まっていた。ところどころに慎二の赤い字で答えが書かれている。
ほとんど間違っていた。
慎二は高校時代、英語で赤点を取っていた。
「何教えてんのよ」
真紀が言うと、店の奥で金属の落ちる音がした。
振り向いた。
誰もいなかった。
床に、小さな赤い球が転がっていた。
手品に使うような、スポンジの球だった。
慎二の店にあるはずのないものだった。
拾うと、少し湿っていた。




