聖者 1
真紀が慎二に「死ね」と言った十四時間後、慎二は死んだ。
だからといって、真紀の言葉が慎二を殺したわけではない。
そんなことは分かっている。
分かっているということと、納得できるということは、あまり関係がない。
*
死ね、は二人のあいだでは、さようならより少し長持ちする言葉だった。
おはようの代わりにもなった。
ありがとうの代わりにもなった。
愛しているの代わりに使ったことは、一度もなかった。
愛しているという言葉だけは、ふざけて口にするには重すぎた。
慎二は仏ヶ浦へ向かう旧国道沿いで、船外機や漁具を修理する小さな店をやっていた。看板には黒瀬マリンサービスと書いてあったが、近所の人間はクロセか、船のところと呼んでいた。
七月十一日の夜、真紀は慎二の店にいた。
二人とも四十を越えていた。
その年齢の男女が二十年以上、恋人になることだけを避けながら、ときどき同じ布団で眠っていた。
若いころには複雑な事情だと思っていた。歳を取ると、単に決めなかっただけだと分かった。
慎二は事務所の窓を少し開け、裸の腹に扇風機の風を当てていた。
「ラジオの人って、裸になると普通だな」
「普通じゃない裸って何」
「もっと発光してるかと思った」
「死ね」
「放送禁止用語」
「お前の人生が放送禁止だよ」
慎二は笑った。
汗で額に張りついた髪をかき上げた。真紀は床に落ちていた自分の下着を拾い、脚を通した。
事務机の上には、分解された無線機と、食べかけの柿の種と、高校生のものらしい英語の参考書が置いてあった。
「これ誰の」
「蓮の」
「誰」
「船舶部にいたガキ。学校行ってない」
「船舶部なんて浪越高校にあったっけ」
「ヨット同好会。部員一人だから船舶部って呼んでる」
「勝手に呼ぶなよ」
「夏休み、ラジオ局で何かやらせられない?」
「何かって」
「掃除とか」
「青少年更生施設じゃないんですけど」
「文章書くのは好きらしい」
「じゃあ投稿させれば」
「投稿したら読んでやれよ」
「面白かったらね」
「お前、子どもには優しくしろよ」
「大人にも優しくされたことない人みたいに言うな」
「優しくされたことあるの」
真紀はブラウスのボタンを留めた。
「いま、優しくしてやっただろ」
「どこが」
「説明が必要なら、料金取るけど」
「死ね」
慎二は机の引き出しから煙草を出した。真紀が一本抜き取って、自分の口にくわえた。
「やめたんじゃなかった?」
「一本だけ」
「一本だけで済んだこと、お前の人生にあった?」
「お前との関係」
慎二は、少しだけ黙った。
「一本じゃないだろ」
「一本の関係が、無駄に長いだけ」
「何だそれ」
「知らない。帰る」
真紀は煙草へ火をつけないまま、店の外へ出た。
夜の空気にも昼の熱が残っていた。遠くで波の音がしていたが、海は見えなかった。
「明日、海の注意喚起やってくれよ」
慎二が事務所の戸口から言った。
「毎日やってる」
「仏ヶ浦、流れ変わってる。防波堤の先、近づくなって」
「市役所に言って」
「市役所より、お前の声のほうが聞くだろ」
「そんな人気番組じゃない」
「浪越で午後三時に生きてる人間、全員聞いてる」
「死ね」
「また明日」
慎二は言った。
真紀は背中を向けたまま、片手を上げた。
それが最後だった。




