花迎え 5
母の部屋を片づけたのは、その夜だった。
果歩と徹は病院へ行く日を相談していた。二人の声が一階の台所から聞こえた。理恵は二階で、母の箪笥を開けた。
着物、下着、古い領収書。
母は何でも取っておく人だった。
底の引き出しに、灰色の封筒があった。
中には写真が一枚入っていた。
春の海だった。
仏ヶ浦の砂浜で、若い男女が肩を寄せて座っている。
女は母だった。
二十歳前後だろう。髪を短く切り、男物のシャツを羽織っていた。膝から下は裸で、足に砂がついている。口には煙草をくわえていた。
隣の男は、理恵の父だった。
理恵が覚えている父より、ずっと痩せていた。母の肩へ手を回し、写真を撮る人間へ中指を立てていた。
二人とも、馬鹿みたいに笑っていた。
写真の裏に、母の字があった。
保登ヶ浦。春。
八つ数えたら、目を開ける。
理恵は何度も読み返した。
母は煙草を嫌っていた。
父が吸うと、台所の窓から捨てた。若い女が肌を出して歩くと、みっともないと言った。旅館の客室で使用済みの避妊具を見つけると、汚いもののように火箸でつまんだ。
その母が、煙草をくわえ、裸足で、男に身体を寄せている。
理恵は腹が立った。
死んだあとまで、嘘をつかれた気がした。
「見つけたんですね」
背後から声がした。
十三湊が、開いた襖の向こうに立っていた。
「勝手に上がらないでください」
「廊下を通っただけです」
「じゃあ通り過ぎて」
女は写真を見た。
「お母さん?」
「そうです」
「きれいな人ですね」
「別人です」
「若い人は、だいたい別人ですよ」
理恵は写真を封筒へ戻した。
「あなた、昼に何を見たんですか」
「何の話です」
「娘の後ろを見てた」
十三湊は部屋に入らず、敷居の外で考えた。
「人だと思ったんです」
「誰」
「小さい人」
「子ども?」
「子どもになる前かもしれない」
理恵は女を睨んだ。
「手品師って、そうやって人を不安にさせてお金取るんですか」
「人を安心させて取ることのほうが多いです」
「出ていって」
「はい」
十三湊は素直に背を向けた。
「ただ」
廊下で足を止めた。
「死んだ人と、生まれる前の人って、遠くから見るとよく似てるんですよ」
「どうして」
「どっちも、まだ名前を呼ばれてないから」
女は階段を下りていった。
理恵は襖を閉めた。
写真をもう一度出した。
母の顔を見た。
若い母は、理恵を知らない。
理恵が生まれる前の母だ。母親になる前の女だ。
写真の中の女には、理恵を叱る理由も、果歩の面倒を見る義務もなかった。ただ海辺で煙草を吸い、男の腕に寄りかかり、春の風に目を細めていた。
理恵は急に笑った。
母のシャツの裾から、下着が少し見えていた。
「何やってんのよ」
声に出すと、涙が出た。
泣きながら笑うと、母の部屋は、ようやく死んだ人間の部屋ではなくなった。
ここには、女がいた。
欲し、腹を立て、嘘をつき、子どもを産み、歳を取り、最後には死んだ女が。
理恵は写真を胸へ当てた。
すると窓の外で、女の笑い声がした。
母の声だった。
理恵は窓を開けた。
宿の裏手から、仏ヶ浦へ下りる細い道が見える。
赤いシャツを着た若い女が、裸足で浜へ歩いていた。
「母さん」
呼びかけそうになって、理恵は口を閉じた。
女は振り返らなかった。
波打ち際で立ち止まり、両手を顔の前へ上げた。
一本ずつ指を開いた。
一、二、三、四。
片方の手を閉じ、もう一度開いた。
五、六、七、八。
女は両手を下ろした。
大きな波が来た。
波が引いたあと、浜には誰もいなかった。




