第5話:清算
弁護士の名前は、田中といった。五十代で、落ち着いた話し方をする人だった。黒瀬の紹介で、離婚案件を多く扱っているという。
「今回のケースは、浮気に加えて托卵という事実があります。慰謝料の請求においては、通常の浮気案件よりも認められる額が高くなる可能性があります」
田中弁護士は書類を一枚ずつ確認しながら、淡々と話した。
「それと、江崎亮氏への請求についても、動けます。認知を拒否しているとのことですが、DNA鑑定の結果をもとに強制認知の申し立てを行うことが可能です。進めますか?」
「お願いします」
俺は短く答えた。
江崎が逃げ続けることは分かっていた。だが、颯太の戸籍に「父:桧山渉」と書かれたままにしておくことは、颯太にとって将来的な問題になる可能性がある。記録として残すことは、俺がやるべきことだと思っていた。
「親権についても確認させてください。お子さんは二人。一人は生物学的なお子さんではないと。現時点でのご希望は?」
俺はしばらく考えた。
「颯太と航、両方を引き取りたい。二人は兄弟だ。引き離したくない」
田中弁護士は少し間を置いた。「颯太くんについては、現在の法律上、婚姻期間中に生まれた子供は夫の子と推定されます。DNA鑑定の結果があっても、戸籍上の手続きは別に必要になります。ご理解の上で、引き取りを希望されますか?」
「はい」
「承知しました。手続きを進めます」
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離婚協議が進む中で、思いがけない人物が現れた。
澪の親友だという中村佳奈が、俺の会社に電話をしてきたのだ。「直接話したい」と言った。俺は「弁護士を通してください」と伝えたが、「五分だけでいいから」と食い下がった。
断り続けるのも面倒だったので、会社の近くのカフェで会った。
中村佳奈は三十代前半で、澪と似た印象の女性だった。会った瞬間から、俺に向かって言葉を出してきた。
「澪が可哀想すぎる。あなたも悪いことはないの? 妻が浮気するのは、夫婦の間に問題があったからでしょ。一方的に責めるのは違うんじゃないかと思って」
俺はコーヒーを一口飲んだ。
「お伝えできることは何もありません。弁護士に連絡してください」
「そんな冷たい——」
「中村さん、一つだけ聞いてもいいですか」
俺は静かに遮った。
「澪のSNSの古い投稿に、あなたのコメントがありました。『向こうが気づかなければ』という言葉。覚えていますか」
中村佳奈の表情が固まった。
「それは……昔の話で——」
「澪が結婚前に妊娠していたことを、あなたは知っていた。そして隠すよう促した。そうですね?」
沈黙が続いた。
俺は立ち上がった。コーヒー代をテーブルに置いた。
「弁護士に連絡してください。以上です」
カフェを出た。振り返らなかった。
中村佳奈からはその後、連絡がなかった。弁護士にも来なかった。
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母の恵子に話したのは、離婚が固まった頃だった。
実家に電話して、「話がある」と言ったら、母はすぐに「来なさい」と言った。電車で一時間の実家に、俺は一人で向かった。
台所でお茶を入れながら、母は俺の話を最後まで聞いた。浮気のこと。DNA鑑定のこと。颯太のこと。
「颯太ちゃんは、知ってるの?」
最初に出てきたのは、その言葉だった。
「まだ話してない。話し方を、考えてる」
「そうね」
母は湯呑みを両手で持って、少し俯いた。
「渉、あなたはどうしたいの」
「颯太も航も、引き取る。弁護士と話している」
「それは決めたのね。じゃあ聞くけど、颯太ちゃんのこと、これからも父親でいるつもり?」
俺は少し間を置いた。
「そのつもりだ」
「なら、それが答えよ」
母はそれだけ言って、お茶を飲んだ。説教もなかった。涙もなかった。ただ「分かった」という空気だけが、そこにあった。
「颯太ちゃん、渉に懐いてたもんね。昔から。あの子の目が、本物だもの」
俺は返事をしなかった。でも、その言葉は、胸のどこかにしみ込んだ。
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離婚協議の最終段階で、澪側から一度だけ条件変更の申し入れがあった。慰謝料を減らしてほしい、という内容だった。
俺は弁護士に「元の条件で進めてください」と伝えた。それだけだった。
交渉はなかった。感情的なやり取りもなかった。ただ書類が動き、印鑑が押され、手続きが進んだ。
そのある夜、澪から直接メッセージが来た。MINEではなく、普通のSMSで。
「颯太のこと、お願いします」
俺はしばらくその文面を見ていた。
「分かった」
それだけ返した。
澪が今後どう生きるかは、俺の知ることではなかった。江崎は認知を拒否し続け、強制認知の手続きは始まったばかりだ。澪の周りに誰が残るかも分からない。
ただ、俺にできることは、目の前の子供たちと生きていくことだけだった。




