第6話:それでも
離婚が成立したのは、秋の初めだった。
書類に判を押して、弁護士事務所を出ると、空が高くなっていた。風が少し冷たくなっていた。俺はそのままコンビニに寄って、缶コーヒーを一本買って、駐車場の端に立って飲んだ。
特別な気分はなかった。終わったな、とは思った。ただそれだけだった。
澪は実家へ戻った。子供たちは俺が引き取った。颯太と航の二人と、俺が暮らす三人家族になった。
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最初の一ヶ月は、正直しんどかった。
仕事から帰って夕飯を作って、颯太の宿題を見て、航を風呂に入れて、二人を寝かしつける。それだけで夜の十時になる。自分の時間はほとんどない。弁当の作り方を動画で覚えて、保育園の連絡帳を書いて、颯太の参観日に行って。
母の恵子が週に一度、手伝いに来てくれた。「ちゃんと食べてる?」と聞かれるたびに、「食べてる」と答えた。
「渉、無理してるでしょ」
「してない」
「嘘ばっかり」
母は笑って、煮物を大量に作って帰った。それがありがたかった。
黒瀬も昼に差し入れを持ってきてくれた。「子育てって、毎日が現場だな」と言って、また現場に戻っていった。余計なことを言わない男で、それが俺にはちょうどよかった。
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颯太に話したのは、冬になってからだ。
完璧なタイミングなんてないと分かっていた。でも、颯太が「なんでパパとママは一緒に住まないの?」と真剣な顔で聞いてくる日が増えてきた。子供なりに、何かを感じているのだと思った。
夜、航が眠ってから、颯太と二人でリビングに座った。
「颯太、大事な話がある」
颯太は少し緊張した顔をした。
「うん」
「ちゃんと聞いてくれるか」
「うん。聞く」
俺は言葉を選んだ。五歳の子に分かる言葉で、でも嘘をつかない言葉で。
「ね、パパとママが離れて暮らしているのはなぜか、知りたいか」
颯太は頷いた。
「パパとママは、これから別々に暮らすことになった。けんかをしたわけじゃないけど、ちゃんと一緒に暮らせなくなった。颯太と航は、パパと一緒に暮らす。ちゃんと決めた」
颯太はしばらく考えて、「ママは?」と聞いた。
「ママは、別のところで暮らす。でも、颯太と航のことを、ちゃんと大事に思ってる」
「会える?」
「会える日を作る。パパが約束する」
颯太はまた黙った。膝の上で手を握ったり開いたりしていた。
「パパ、颯太のことが嫌いになったから、ママと別れたの?」
予想していなかった質問だった。俺は少し驚いて、颯太の顔を見た。真剣だった。
「違う」
俺は首を振った。
「颯太のことが嫌いになったことは、一度もない。それは絶対に違う」
「じゃあ、颯太、ここにいていい?」
「いていい。ここが颯太の家だ」
颯太は少し考えてから、「うん」と言った。それから俺の胸に頭をくっつけてきた。
俺はその小さな頭に手を置いた。何も言わなかった。
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春が来た。
颯太は小学校に上がった。入学式の朝、颯太は俺が用意したランドセルを背負って「パパ、似合う?」と聞いた。
「似合う。かっこいいよ」
「やったー! 写真撮って!」
俺はスマホで何枚も撮った。颯太は張り切ってポーズを変えた。航はまだ何も分かっていないくせに、兄につられて笑っていた。
式が終わって、帰り道を三人で歩いた。颯太は「今日何食べる?」と聞いた。
「何が食べたい?」
「からあげ!」
「じゃあ作るか」
「パパの作るやつ、おいしいから!」
俺は笑った。自然に笑えた。
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その夜、二人が眠ってから、俺は一人でビールを開けた。
澪のことを考えた。あの七年間のことを。颯太の誕生日のこと。家族旅行のこと。楽しかった記憶は確かにあった。全部が嘘だったわけじゃない。でも、嘘の上にあったことも本当だ。それをどう整理するかは、まだ完全には答えが出ていない。
颯太のことを考えた。
血がつながっていない。その事実は変わらない。でも、俺がこの七年間、颯太の泣き声で目を覚まして、颯太の笑い声で元気をもらって、颯太と一緒に生きてきたことも、変わらない事実だ。
どちらが本物か、なんていう問いの立て方は、たぶん間違っている。
両方が本物だった。そして俺は、颯太の父親であることを、これからも選んでいく。
そう決めたのは、頭じゃなかった。颯太が「パパ、かっこいいよ」と言った時の、あの目を見た時だった。
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翌朝、颯太が起きてきた。寝ぼけた顔で、俺の横に来た。
「パパ、おはよ」
「おはよ、颯太」
颯太はしばらく俺の隣に立って、「ねえ」と言った。
「なに?」
「パパ、ありがとう」
俺は手を止めた。「何が」と聞いたら、颯太は少し考えて、
「なんか、全部」
とだけ言って、洗面所に走っていった。
俺は、しばらくその後ろ姿を見ていた。
全部。
その言葉が、胸の中でゆっくりと広がった。
怒りも、悲しみも、虚しさも、まだ全部消えたわけじゃない。これからも色々あるだろう。それでも、今この瞬間、俺の前に颯太がいて、航がいて、朝がある。
それで十分だ、と思えた。
俺は洗面所の前に立って、鏡を見た。
疲れた顔をしていた。でも、それで構わなかった。
これが、俺の選んだ人生だ。




