第3話:疑惑
その週の木曜日、俺はDNA鑑定のキットをネットで注文した。
注文ボタンを押す前に、三十分以上画面を眺めていた。サイトには「簡単・自宅で完結・結果は郵送」と書いてある。手順を読んだ。唾液を採取して送るだけ。二週間から三週間で結果が来る。
簡単な手順だ。なのに、俺の指が動かなかった。
注文する、ということは、疑うということだ。颯太を、俺の息子かどうか疑う、ということだ。七年間、抱き上げて、一緒に眠って、風邪をひいたら病院へ連れていった、あの子を。
でも、疑わないままでいることもできなかった。
あのSNSの投稿が頭から離れない。「大変なことになった」「向こうが気づかなければ」。そして結婚七ヶ月後に生まれた颯太。澪の浮気相手として現れた「江崎亮」という名前。全部がつながる気がした。いや、つながっているとしか思えなかった。
俺はカートを確認して、注文した。
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翌日、現場で黒瀬に話した。
「鑑定、頼んだ」
黒瀬は少し間を置いて、「そうか」と言った。何も聞かなかった。ただ缶コーヒーを俺に渡して、「しんどいな」とだけ言った。
それがちょうどよかった。あれこれ言われる気力がなかった。
「颯太、お前に懐いてるからな」
黒瀬が続けた。それは事実だった。颯太は俺によく懐いていた。お風呂もパパと入りたがる。夜も俺の横で眠りたがる。「パパ、明日も仕事?」と聞いてくる。
「それは関係ない」
「関係あるだろ」
「血の話をしてる」
「血だけが親子の話じゃないだろ」
俺は答えなかった。黒瀬の言いたいことは分かった。でも今は、まず事実を確かめなければならなかった。事実の上でしか、何も考えられない。
「もし、そうじゃなかったら?」
黒瀬が聞いた。
「颯太がお前の子じゃなかったら、どうする?」
俺は現場の方を向いたまま答えた。
「分からない。でも、知らないままの方がもっと無理だ」
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キットが届いたのは、注文から三日後だった。
封筒を開けると、綿棒と採取用のチューブが入っていた。手順書も入っている。俺は全部をクローゼットの奥にしまった。澪には見せられない。澪がいない時間に実行する必要があった。
機会は二日後に来た。
澪が颯太を連れてスーパーへ出かけた。航は昼寝中だった。
俺はクローゼットからキットを取り出した。手が少し震えていた。颯太の部屋に入って、颯太が使ったコップを探した。いつもここに置いてあるはずの、プラスチックのコップ。恐竜の絵が描いてある、颯太のお気に入りだ。
そこに、かすかな唾液の跡が残っていた。
俺は綿棒で慎重に採取した。自分の分は、その後で採った。
全部が終わった後、俺はキットを封筒に戻して、机の上に座ったまましばらく動けなかった。
何をしているんだろう、と思った。
俺が愛して育ててきた子供を、自分の子かどうか確かめるために唾液を採っている。これが正しいことなのか、間違っていることなのか、分からなかった。分かっているのは、このまま何も知らずに生きていくことが、もう俺には無理だということだけだ。
翌日、仕事帰りにポストに投函した。
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結果が来るまでの二週間は、俺の人生でも指折りの苦しい時間だった。
澪との関係は、表面上は穏やかだった。弁護士を通じた離婚協議が始まっていたので、二人の間に直接の会話は少なくなっていた。それでも子供たちの前では普通に振る舞わなければならない。颯太に「なんでパパとママ、あんまり話さないの?」と聞かれた時は、「仕事で疲れてるんだ」と答えた。颯太は「そっかー」と言って、それ以上聞かなかった。
夜になると、考え込んでしまった。
もし、颯太が俺の子じゃなかったとしたら——。
その後の言葉が続かなかった。「だから何?」という問いに、俺はまだ答えを持っていなかった。
颯太は今も毎朝「パパ、おはよ!」と言いながら俺の布団に潜り込んでくる。小さな足が俺の足に絡まる。「今日も仕事? 帰ってきたらまた遊ぼうね」とよく言う。
その声を聞くたびに、俺の胸の中で何かが痛んだ。
もし、本当にそうなら。
俺が父親だと信じてくれているこの子は、俺の何を見ているんだろう。血なのか。それとも俺そのものを見ているのか。
正直に言えば、どちらでも俺の答えは変わらないような気がした。だが「気がした」では足りなかった。確かめなければ、本当のことを向き合えない。
結果が来る日を、俺は恐れながら待ち続けた。




