サイドストーリー:桧山恵子の視点
颯太ちゃんが生まれた日、渉は電話で泣いていた。
「母さん、生まれた。男の子だ」
その声が、今でも耳に残っている。あの子が泣いたのは、小学校の入学式以来だったと思う。うちの渉は昔から泣かない子だったから、電話越しに泣いている声を聞いて、私まで泣いてしまった。
颯太ちゃんは、本当に可愛い子だった。会いに行くたびに「おばあちゃん!」と走ってきた。笑顔が渉に似ていると思っていた。親子だもの、そりゃ似るわよね。そう思っていた。
今は、それが違うと知っている。
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渉から話を聞いた日、私は台所でお茶を入れていた。渉が実家に来るのは久しぶりで、「話がある」と言っていたから、何かあったのだとは思っていた。離婚することは薄々感じていた。でも、颯太ちゃんの件は、予想していなかった。
渉は順番に話してくれた。浮気のこと。DNA鑑定のこと。颯太ちゃんのこと。
私は、途中で何も言えなくなった。
颯太ちゃんが渉の子じゃない。澪さんが、別の男の子を、渉の子として産んだ。
頭では分かった。でも、受け入れるのに時間がかかった。
颯太ちゃんのあの笑顔が、浮かんでくる。「おばあちゃんのご飯、おいしい!」と言って、おかわりを三杯した日のことを思い出す。渉に抱っこされて、二人で昼寝している写真。あれは全部、本物の時間だった。
血が違う、という事実が、あの時間を嘘にするのか。
私には、できなかった。颯太ちゃんを、孫じゃないとは思えなかった。
「渉、あなたはどうしたいの」と聞いた時、渉が「颯太も航も、引き取る」と言った。
私は少し驚いた。渉がそういう選択をする人間だとは分かっていたが、改めて聞くと、胸が詰まった。
「颯太ちゃんのこと、これからも父親でいるつもり?」
「そのつもりだ」
渉の目が、まっすぐだった。迷っていなかった。
「なら、それが答えよ」
私が言える言葉は、それだけだった。説教も、慰めも、いらなかった。渉はすでに決めていた。私の役割は、それを受け止めることだけだった。
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「颯太ちゃん、渉に懐いてたもんね。昔から。あの子の目が、本物だもの」
口から出た言葉だったが、言いながら自分でも正しいと思った。
子供の目は、本物だ。嘘をつかない。颯太ちゃんが渉を見る目は、安心している目だった。信頼している目だった。それは七年間で積み上げてきた、本物の信頼だ。血がどうであれ、それは消えない。
澪さんのことは、正直、許せない気持ちがある。渉を騙したこと。颯太ちゃんを利用したこと。全てが許せるかと言えば、そうじゃない。
でも、今の私には、怒りをぶつける場所もない。澪さんはもういない。颯太ちゃんは渉と暮らしている。私にできることは、週に一度、渉の家に行って、煮物を作って帰ることだけだ。
「ちゃんと食べてる?」
「食べてる」
「嘘ばっかり」
この会話を毎週繰り返す。渉は笑わないが、少しだけ目が和らぐ。それで十分だ。
颯太ちゃんが「おばあちゃん!」と走ってくる日が、また来ている。
あの子は私の孫だ。血がどうであれ、それは変わらない。渉が父親でいることを選んだように、私も祖母でいることを選ぶ。
それだけのことだ。




