第2話 今日からこの家で暮らすそうです
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第2話 今日からこの家で暮らすそうです
玄関ホールへ足を踏み入れた瞬間、私は立ち止まった。
恭弥の隣に、一人の女性が立っていたからだ。
白石美玲。
恭弥が長年関係を続けている女性。
そして、彼が本当に愛している女性だった。
「どうして……」
私の声は震えていた。
恭弥は面倒そうに眉をひそめる。
「美玲は体が弱い」
それが答えだった。
「え?」
「しばらくこの屋敷で休ませる」
意味が分からなかった。
いや、分かりたくなかった。
「休ませるって……」
「そのままの意味だ」
恭弥は冷たく言った。
「今日からここで暮らす」
頭が真っ白になる。
愛人が。
この家で。
私と同じ屋根の下で暮らす。
そんなことが許されるのだろうか。
「恭弥様……」
美玲が遠慮がちに袖を引く。
「やっぱり私は……」
「気にするな」
恭弥は優しく微笑んだ。
私には一度も向けられたことのない笑顔だった。
胸が痛む。
結婚して五年。
私は一度だって愛されたことがない。
思い出すのは結婚式の夜のことだ。
――勘違いするな。
静かな声だった。
――これは家のための結婚だ。
――俺には愛している女がいる。
――お前を愛するつもりはない。
夢みたいだった結婚初日。
その夢は、その夜に終わった。
それでも私は諦めなかった。
いつか振り向いてくれるかもしれない。
そう信じていたから。
だけど。
今、恭弥の隣にいるのは私ではない。
美玲だった。
「部屋はどうするのですか」
佐伯が慎重に尋ねた。
恭弥は迷いなく答える。
「東館を使わせる」
私は息を呑んだ。
東館。
主寝室に最も近い客室だ。
来賓が来た時にしか使われない特別な部屋。
「恭弥様、そんな……」
美玲が困ったように首を振る。
「私は普通のお部屋で十分です」
「駄目だ」
恭弥は即答した。
「お前は体が弱い」
「でも……」
「無理をするな」
優しい声。
まるで宝物を扱うような態度だった。
その様子を見ているだけで苦しくなる。
私が欲しかったものを。
美玲は当たり前のように手に入れている。
「陽菜ちゃん」
美玲がしゃがみ込んだ。
「はじめまして」
陽菜は私の後ろに隠れる。
当然だ。
初めて会う相手なのだから。
しかし美玲は嫌な顔一つしなかった。
「かわいい」
そう言って微笑む。
恭弥も優しく見守っている。
まるで家族みたいに。
いや。
私だけが家族ではないみたいだった。
夕食の時間になった。
私は料理を並べる。
恭弥の好きなものばかり。
昔から変わらない。
食べてもらえなくても作り続けてきた。
もしかしたら今日こそ。
そんな期待を抱いてしまう。
愚かだと分かっているのに。
席に着いた恭弥は料理を見た。
そして。
「下げろ」
冷たい声だった。
私は固まる。
「え……」
「美玲の口に合わない」
心臓が痛んだ。
「でも……」
「聞こえなかったか?」
低い声。
逆らうことを許さない声。
「全部下げろ」
私は何も言えなくなった。
使用人たちも気まずそうに俯いている。
誰もが分かっている。
この屋敷で一番立場が弱いのは私だ。
「恭弥様」
美玲が慌てたように言う。
「私のためにそんな……」
「気にしなくていい」
恭弥は優しく答える。
「お前の方が大事だ」
私は俯いた。
視界が滲む。
泣いてはいけない。
慣れているはずだ。
今までだってそうだった。
ギュッと、エプロンの裾を握りしめる。
…でも、私にはまだ、研究がある。
この家でいつ離婚を突きつけられても、最愛の陽菜を私の手で育てていけるように。
家を追い出された後の生活の糧として、私は死に物狂いで研究を続けてきた。
まだ世間には認められていない、小さな成果かもしれない。
けれど、これだけが私の武器で、陽菜を守るための盾なのだ。
だから、こんな冷遇に負けて心を折るわけにはいかない。
だけど。
今日はいつもより苦しかった。
愛人が目の前にいるからだろうか。
食事の後。
美玲は使用人に案内されて東館へ向かった。
私の横を通り過ぎる。
その時だった。
誰も見ていない。
恭弥も。
使用人も。
誰も。
美玲は立ち止まった。
そして。
私だけに聞こえる声で囁く。
「かわいそう」
ぞくりと背筋が冷えた。
顔を上げる。
美玲は微笑んでいた。
勝者の笑みだった。
次の瞬間には、何事もなかったように儚げな表情へ戻る。
私は言葉を失った。
この女は弱くない。
むしろ。
誰よりも恐ろしい。
そう思った。
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