第16話 もう私には関係ありません
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第16話 もう私には関係ありません
共同研究の成功から数日。
研究所には世界中の企業から共同開発の申し出が届いていた。
その中には。
九条グループの名前もあった。
応接室。
私は契約書に目を通していた。
コンコン。
ドアがノックされる。
「失礼します。」
秘書が頭を下げた。
「九条グループの九条恭弥様がお見えです。」
私はペンを置いた。
「……お通ししてください。」
数秒後。
恭弥が自信に満ちた表情で部屋へ入ってきた。
「久しぶりだな、菫。」
「お久しぶりです。」
私は軽く頭を下げる。
あんなに好きだった恭弥を前にしても。
何も感じない自分に驚いた。
「本日はどのようなご用件でしょうか。」
恭弥は笑みを浮かべながら契約書を机へ置いた。
「共同事業の契約だ。」
「世界中から声が掛かっているらしいな。」
「その中でも九条グループを選べ。」
「君に損はさせない。」
「昔の縁もある。」
「私が責任を持つ。」
私は契約書を手に取る。
一枚だけ目を通し。
静かに閉じた。
「申し訳ありません。」
「このお話は、お断りいたします。」
恭弥は笑みを浮かべたまま動きを止めた。
「……は?」
私はもう一度はっきりと言った。
「お断りいたします。」
「なぜだ?」
「相手は九条グループだぞ。」
「断る理由がない。」
私は静かに答える。
「共同開発先は研究チーム全員で決めます。」
「申し訳ありませんが。」
「九条グループを推薦する予定はありません。」
恭弥の表情が変わる。
「何を言っている。」
「君は私の妻だったんだぞ。」
「私が頼んでいるんだ。」
私は首を横へ振る。
「元妻です。」
「そして今は勤務中です。」
「藤堂とお呼びください。」
恭弥は信じられないという顔をした。
「待て。」
「感情で判断するな。」
「これは会社の話だ。」
「君にも利益がある。」
「私を助けてくれ。」
その時だった。
コンコン。
「失礼します。」
橘先生が部屋へ入ってくる。
「藤堂先生。」
「次の打ち合わせのお時間です。」
「承知しました。」
私が立ち上がろうとすると。
「待て!」
恭弥が声を荒げた。
「まだ話は終わっていない!」
橘先生は静かに恭弥へ向き直る。
「失礼ですが。」
「藤堂先生は、お断りするとおっしゃいました。」
「これ以上お引き留めするのは、お仕事の妨げになります。」
恭弥は橘先生を睨みつける。
「君には関係ない!」
橘先生は表情を変えない。
「私は共同研究の責任者です。」
「藤堂先生は、私たちの大切な研究員です。」
恭弥は鼻で笑う。
「…そうか。」
「お前が菫を変えたんだな。」
「あいつは、こんなふうに私に逆らう女じゃなかった。」
私は口を開く。
「違います。」
「私が自分で決めました。」
しかし。
恭弥は聞こうとしない。
「余計な口を挟むな。」
「これは男同士の話だ。」
橘先生は穏やかに答えた。
「誤解されています。」
「藤堂先生が、ご自身で決断されたことです。」
恭弥は苛立ちを隠せない。
「お前は黙ってろ!」
「人の家庭を壊しておいて!」
橘先生は穏やかな笑みを崩さない。
「私ではないと思います。」
その声は穏やかだった。
だが。
恭弥を見据える瞳だけは鋭い。
その迫力に。
恭弥は思わず息をのんだ。
私は橘先生を見る。
「橘先生。」
「参りましょう。」
「はい。」
二人で応接室を後にする。
「待て!」
恭弥の怒鳴り声が廊下に響く。
私たちは足を止めない。
「菫!」
「その契約を断れば後悔するぞ!」
「九条グループに逆らって成功できると思うな!」
「菫!」
「聞いているのか!」
二人は並んで歩き出す。
「絶対に後悔するぞ!」
私は一度も振り返らなかった。
背後から響く言葉は、
どこまでも傲慢で、最後まで私を見下したものだった。
私からすべてを奪い、冷酷に追い出したあの人は、
まだ気づいていない。
世界は、彼を中心に回っているわけではないということに。
「藤堂先生、大丈夫ですか」
隣を歩く橘先生が、心配そうに私を覗き込んだ。
その瞳には、先ほど恭弥に向けた鋭い迫力はなく、
いつもの穏やかな光だけが宿っている。
「はい。もう、あの人は私には何の関係もありませんから」
この時の私は、知る由もなかった。
恭弥が、その傲慢さゆえに、
どんな地獄を見ることになるのかを――。
恭弥の姿が、見えなくなったところで、
私は急に恥ずかしくなった。
「橘先生。」
「お見苦しいところを、お見せしてしまいました。」
「助けていただいて、ありがとうございます。」
橘先生は優しく微笑んだ。
「藤堂先生が謝ることではありません。」
少しだけ間を置いて、私を見つめる。
「私は……。」
「離婚されて、本当に良かったと思っています。」
「あなたは、あのような扱いを受ける方ではありません。」
私は思わず目を見開いた。
その言葉は、不思議なくらい胸にすっと入ってきた。
(ああ、私はもう、あの家に縛られなくていいんだ)
恭弥は、私が憧れていたような人ではなかった。
そう認めて、心がふっと軽くなったのは、
きっと、私自身が新しい一歩を踏み出し、
橘先生に認められたからなのだろう。
その頃。
九条グループ本社では。
一通の封筒が、静かに恭弥の机へ運ばれていた。
それは、菫を捨ててまで選んだ不倫相手――白石美玲に関する、
あまりにも醜い裏切りが詰め込まれた『調査報告書』だった。
恭弥は、まだ知らない。
その封筒を開いた瞬間から、自らの人生が崩れ始めることを。
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