第12話 研究だけが私を裏切らない
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第12話 研究だけが私を裏切らない
翌朝。
久しぶりに、ぐっすり眠ることができた。
目を開けると、見慣れた天井が目に入る。
昨日までの出来事が夢だったらいいのに。
そう思った。
けれど。
隣を見ても。
私の愛しい娘、陽菜の姿はない。
ここは間違いなく私の実家だった。
「おはよう、菫」
母が優しく笑った。
「おはよう、お母さん」
部屋を出ると、美味しそうな香りが漂ってくる。
食卓には父と兄さんが座っていた。
「よく眠れたか」
父が尋ねる。
「少しだけ」
私は小さく笑った。
四人で食卓を囲む。
こんな朝は、何年ぶりだろう。
ただ、そこに陽菜がいない事実が、私の胸を激しく締め付けた。
食事を終えると、私は席を立った。
「それじゃあ、行ってきます」
父が新聞から顔を上げる。
「仕事へ行くのか」
「はい」
「もう仕事なんて行かなくてもいい。」
「藤堂家がお前を養う。」
「孫を取り返すためになら、九条家との裁判だって、うちの弁護士を総動員して戦ってやる」
父なりの、精一杯の不器用な優しさだった。
その気持ちが嬉しかった。
だからこそ、私は静かに首を横へ振った。
「ありがとうございます。」
私は拳をぎゅっと握りしめた。
「でも、研究は続けたいんです。」
「九条家から陽菜を取り戻すには、私自身に彼らと対等に戦えるだけの力と、確固たる社会的地位が必要です。」
父は黙って私を見つめる。
「……それに」
「研究だけは……」
「私を裏切りませんでした。」
部屋が静まり返る。
「努力した分だけ結果を返してくれる。」
「私には、それだけが支えなんです。」
やがて、父は小さく頷く。
「そうか。」
「なら好きなようにやれ。」
「藤堂家はお前の後ろ盾だ。」
私は深く頭を下げた。
陽菜、待っていてね。
お母さんは絶対に諦めないから。
研究所へ着くと、すぐに上司から呼ばれた。
「藤堂先生、会議室へ。」
中へ入ると、研究員たちが集まっていた。
上司が笑顔で言う。
「正式に共同研究が決まった。」
私は驚く。
「共同研究ですか?」
「ああ。」
「相手は橘グループ研究所だ。」
部屋がざわつく。
「橘グループ?」
「あの世界的な研究所?」
「まさか……。」
その時。
会議室の扉が開いた。
一人の男性が入ってくる。
背が高く、落ち着いた雰囲気。
知的で品のある男性だった。
「はじめまして。」
「橘悠真です。」
穏やかな声が部屋に響く。
一人ひとりへ挨拶を済ませると。
橘先生は私の前で足を止めた。
「藤堂先生。」
右手を差し出す。
「あなたの論文は何度も読ませていただきました。」
「本当に素晴らしい内容でした。」
「ぜひ、お力を貸してください。」
私は少し驚きながら、その手を握る。
「こちらこそ、よろしくお願いいたします。」
握手を終えたあとも。
橘先生は、私を見つめていた。
その瞳には。
どこか温かく、懐かしいものを見つめるような色が宿っていた。
「……?」
私が首を傾げると。
橘先生は穏やかに微笑み、すぐに視線を外した。
気のせいだったのだろうか。
共同研究が始まった。
驚いたのは、橘先生の知識量だった。
次々と新しい発想が飛び出す。
私も必死についていく。
休憩時間。
研究員たちが小声で話していた。
「橘先生って、本当にすごい人なんだよ。」
「海外の研究賞を何度も受賞してる。」
「共同研究なんて滅多に引き受けないらしい。」
「テレビにも出ないし、講演もほとんど断ってるって。」
「なんで今回は引き受けたんだろうね。」
私は思わず橘先生を見る。
世界的な研究者。
そんな人と一緒に仕事ができるなんて。
緊張で胸がいっぱいだった。
午後の打ち合わせ。
私はチーム全体へ指示を出していた。
誰に何を任せるか。
どの順番で進めるか。
全員が動きやすいように調整していく。
会議が終わる。
橘先生が私へ近付いた。
「藤堂先生。」
「はい。」
「素晴らしかったです。」
「研究だけではありません。」
「チーム全体を見ながら進める力は、私にはありません。」
「皆さんが安心して研究できるのは、藤堂先生のおかげですね。」
私は思わず目を丸くした。
そんなふうに言われたのは初めてだった。
胸の奥が少しだけ温かくなる。
その様子を少し離れた場所から見ていた研究員が、小さく笑う。
「ねぇ。」
「気付いた?」
「何が?」
「橘先生。」
「藤堂先生が話してる時だけ、ずっと見てるよね。」
「確かに。」
「他の人が説明してる時は資料しか見ないのに。」
「気のせいじゃない?」
「いや、絶対違うって。」
――私は、その会話にまったく気づいていなかった。
ただ、目の前の研究を成功させること。
そして、九条家から最愛の娘・陽菜を奪い返すこと。
私の頭の中は、それだけで一杯だったからだ。
だから、知る由もなかった。
世界的な天才である橘悠真が、
なぜ滅多に受けない共同研究を、
引き受けたのか。
彼が私に向ける穏やかな眼差しの奥に、
16年という長い歳月をかけて育まれた想いが、
秘められていたことを。
――この再会が、私と娘の運命を大きく変える始まりになることを。
この時の私はまだ、何も知らなかった。
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