第10話 初恋が終わった日
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それでは本編をどうぞ。
第10話 初恋が終わった日
昨日から一睡もできていない。
離婚届を渡され。
親権を奪われ。
家を追い出されようとしている。
眠れるはずがなかった。
頭がぼんやりする。
何も考えられない。
それでも。
不思議と涙は出なかった。
泣きすぎてしまったのかもしれない。
今日は仕事が休みで良かった。
そんなことを考える自分に少しだけうんざりする。
離婚する日だというのに。
真っ先に仕事の心配をしている。
私は苦笑した。
仕事しかなかったのだ。
家族を失った今となっては。
本当に。
それしか残っていなかった。
机の上には離婚届が置かれている。
私は何度もそれを見つめた。
恭弥。
その名前を見るだけで胸が痛む。
初恋だった。
ずっと好きだった。
誰よりも。
何よりも。
好きだった。
だから耐えられた。
無視されても。
冷たくされても。
愛人がいても。
いつか振り向いてくれるかもしれない。
そんな馬鹿みたいな期待を捨てられなかった。
けれど。
もう終わりだった。
恭弥は私を選ばなかった。
最初から一度も。
その時だった。
机の引き出しから一枚の写真が落ちる。
結婚式の日の写真だった。
私はドレス姿で笑っている。
幸せそうに。
恭弥の腕に手を添えて。
けれど。
今なら分かる。
あの日。
笑っていたのは私だけだった。
恭弥は一度も幸せそうじゃなかった。
胸が締め付けられる。
それでも。
私はペンを取った。
震える手で名前を書く。
最後の一文字を書き終えた瞬間。
何かが終わった気がした。
十年以上続いた初恋だった。
応接室へ向かう。
扉を開く。
そこには恭弥がいた。
そして。
当然のように。
その隣には美玲が座っていた。
私は少しだけ笑いそうになった。
最後くらい。
二人で話せるかもしれない。
そんな期待すら許されないらしい。
私は黙って離婚届を差し出した。
恭弥は書類を確認する。
そして何の感情もなく頷いた。
「そうか」
それだけだった。
私は呆然とする。
十年以上好きだった人の言葉が。
たったそれだけ。
「良かった……」
美玲が安心したように呟く。
そして恭弥の腕にそっと触れた。
恭弥はその手を振り払わない。
私は目を逸らした。
見ていられなかった。
「最後に一つだけ」
私が言うと。
恭弥が顔を上げる。
「陽菜に会わせて」
母親としての。
最後の願いだった。
沈黙が落ちる。
その沈黙を破ったのは美玲だった。
「ごめんなさい……」
今にも泣きそうな声。
「陽菜ちゃん、きっと混乱してしまうから……」
俯く。
肩を震わせる。
演技だと分かっている。
けれど。
恭弥には分からない。
「美玲の言う通りだ」
冷たい返事だった。
「今は会わせられない」
私は目を閉じる。
そう。
分かっていた。
期待してはいけなかった。
もう。
何も。
「そう」
それだけ答える。
私は左手を見る。
結婚指輪。
何年も外せなかった。
恭弥を愛していた証。
妻だった証。
私はゆっくりと指輪を外した。
そしてテーブルの上へ置く。
小さな音が響いた。
もう戻れない。
「さようなら」
誰に向けた言葉だったのだろう。
恭弥か。
この家か。
それとも。
初恋だったのか。
自分でも分からなかった。
私は踵を返す。
その時だった。
ふと視線を感じる。
振り返る。
恭弥は離婚届を見ている。
こちらを見てもいない。
その隣で。
美玲だけが私を見ていた。
そして。
恭弥には見えない角度で。
ゆっくりと口元を歪める。
勝者の笑みだった。
美玲の唇が小さく動く。
――さようなら、奥様。
私は何も言わなかった。
言う必要もなかった。
そのまま応接室を出る。
長い廊下を歩く。
玄関へ向かう。
もう涙は出なかった。
出尽くしてしまったのかもしれない。
屋敷の扉が閉まる。
振り返らない。
振り返ったら。
前へ進めなくなる気がしたから。
こうして。
私の初恋は終わった。
そして。
新しい人生が始まろうとしていた。




