7
翌日から、私の生活はこれまで以上に目まぐるしいものへと変わっていった。
午前中はラインハルトの執務室で難民たちの台帳整理や、領内の物資流通に関する計算といった事務仕事に没頭する。インクで指先を黒く染めながら、一枚一枚の書類を片付けていく時間は、私に「一人の人間として社会の役に立っている」という確かな手応えを与えてくれた。
私が提案した、難民たちの前職(大工、鍛冶師、農夫など)に合わせた適材適所の居住区配置案は、領内の役人たちからも「王都の生ぬるいお嬢様かと思えば、恐ろしいほどの即戦力だ」と非常に高く評価された。通りかかる廊下で、年配の文官たちが私に向けて深々と一礼してくれるのを見るたび、胸の奥が誇らしさでくすぐったくなる。
しかし、本当の試練は午後からだった。
「――お嬢様、集中してください。魔力は力任せに引き出すものではありません。大河の水を、指先の隙間から少しずつ滑り込ませるようなイメージです」
アステル砦の裏手にある、頑丈な石壁に囲まれた魔術演習場。
初老の筆頭魔導師オズワルドの厳格な声が響く中、私は額に汗を浮かべて、胸元のサファイアのペンダントを握りしめていた。
あの日、村で発動した「水の結界」は、私の命の危機と「誰かを守りたい」という強い感情が引き起こした偶然の奇跡に過ぎなかった。ジュリアンが率いる私兵団との戦いに備えるためには、あの高位の防御魔法を、自分の意志で、いつでも、そして体力を枯渇させることなく発動できるようにならなければならない。
「くっ……、ああ……っ!」
ペンダントに意識を集中させると、サファイアがドクンと脈打つように青い光を放つ。しかし、その光は形を成す前に、霧が散るように空中に霧散してしまった。同時に、胃の腑を雑に掴まれたような凄まじい疲労感が全身を駆け抜け、私はその場に膝をついた。
「そこまで」
低く、地鳴りのように心地よい声が演習場に響く。
振り返ると、漆黒の外套をなびかせたラインハルトが、腕を組んでこちらに歩み寄ってくるところだった。彼は毎日、領軍の訓練の合間を縫って、私の魔力訓練を直に見届けにやってくる。
「オズワルド。エルリアの現状はどうだ」
「はっ、辺境伯閣下。サヴァラン家……いえ、エルリア様の体内に眠る魔力量は、エレーヌ様と同等、あるいはそれ以上のものでございます。しかし、これまで一度も魔力を循環させる訓練を受けてこられなかったため、身体の『路(回路)』が細すぎるのです。無理に大きな魔法を出そうとすれば、昨日と同じく魔力枯渇で倒れてしまいかねません」
オズワルドは困ったように白い髭をなでた。
私は地面についた手を握りしめ、悔しさに唇を噛んだ。
王都にいた頃の私が、もし少しでも魔法の知識を持っていれば。ジュリアンに「無価値だ」と罵られる日々の裏で、自分の力を磨くことができていれば。今、こんなに足手まといにならずに済んだはずなのに。
「……申し訳ありません、ラインハルト様。私、やっぱり……」
「弱音を吐くのが早すぎるぞ、エルリア」
ラインハルトは私の前にしゃがみ込むと、手袋を外した大きな手で、私の泥のついた顎をそっと持ち上げた。
群青色の瞳が、至近距離から私の瞳の奥を見つめてくる。その瞳には、落胆の色など微塵もなかった。あるのは、私という人間に対する絶対的な信頼と、揺るぎない確信だけだ。
「お前はあの夜、すべてを捨てて王都を脱出する覚悟を決めた。魔獣の突進から、見ず知らずの親子を守るために命を懸けた。お前の本質は、そのように簡単に挫けるほど柔なものではないはずだ。違うか?」
「それは……」
「路が細いなら、広げればいい。魔法は頭でこねくり回すものではない。……オズワルド、一度下がれ。私が直接、こいつの循環を手伝う」
「閣下、しかしそれは……。他人の魔力回路に直接干渉するのは、肉体的な負担が――」
「構わん。私の魔力特性は『剛』だが、エルリアの『水』を刺激するくらいはコントロールできる。下がれ」
「……はっ、御意のままに」
オズワルドが深く一礼して演習場を去っていく。広い石造りの空間に、私とラインハルトの二人だけが残された。
ラインハルトは私の斜め後ろに回り込むと、地面に座る私の背中を、自らの胸板で支えるようにして密着させた。
あの日、黒馬の背の上で感じた、圧倒的な男の体温と鉄の匂い。彼の頑強な両腕が私の脇から伸び、私の両手を包み込むようにして握りしめた。
「ひゃあ……っ」
「動くな。意識を逸らすなと言っただろう。……手の平を合わせろ」
耳元で囁かれる彼の低い声が、首筋をくすぐって心臓が跳ね上がる。けれど、彼の大きな手のひらから、驚くほど純粋で、温かい「何か」が私の皮膚を通じて流れ込んできた瞬間、恥ずかしさは吹き飛んだ。
「これが、私の魔力だ。……お前の身体の中を走る、冷えた小川を探せ。そこに、私の熱を少しずつ流し込んでいく」
ラインハルトの言葉通り、私の目を瞑った視界の裏側に、血管とは違う細い「光の筋」が見え始めた。それは王都での三年間のストレスと恐怖のせいで、あちこちが縮こまり、今にも途切れそうに細くなっていた。
そこに、ラインハルトの圧倒的に力強く、しかし驚くほど繊細にコントロールされた黄金色の魔力が、優しく流れ込んでいく。
じわり、と身体の芯から熱が広がっていく。
凍りついていた川の氷が、春の陽光を浴びて溶けていくかのような、強烈な快感と安堵感。私は思わず、彼の胸の中にさらに深く身体を預けてしまった。ラインハルトはそれを拒むことなく、むしろ私の身体が震えないよう、その太い腕でしっかりと私を抱きすくめた。
「……見つけた。そこが、お前の回路の源流だ。エルリア、今度は私の力を借りずに、自分の中の水を動かしてみろ。サファイアへ流すんだ」
「はい……!」
彼の温もりに守られながら、私は意識を集中させた。
私の中にある、大河の雫。それを、ジュリアンへの恐怖や怒りではなく、リヴィエールで出会った温かい人々への感謝、そして――今、私をしっかりと支えてくれている、この不器用な辺境伯への信頼の感情に乗せて、胸元の宝石へと送り込む。
キィィィン……。
澄んだ金属音が鳴り響いた。
目を開けると、私たちの前方に、昨日よりも遥かに濃密で、透き通った青い光の盾が、ゆらゆらと美しく形を成していた。それは私の体力を削ることなく、ラインハルトの魔力と私の魔力が美しく共鳴し合って、そこに存在していた。
「できた……。ラインハルト様、私、出せました!」
私が歓喜の声を上げて振り返ると、至近距離にあったラインハルトの顔が、わずかに赤らんでいるのが見えた。彼は私の嬉しそうな笑顔を見つめたまま、一瞬だけ言葉を失ったように目を細め、やがて、私の手を握る力をそっと緩めた。
「……ああ、見事だ。お前は本当に、私の予想を何度も超えていくな」
彼は立ち上がり、気まずそうに咳払いをすると、再び冷淡な仮面を被り直した。けれど、手袋をはめる彼の指先が、わずかに震えていたのを、私は見逃さなかった。
冷徹な守護者が、私とのスキンシップに動揺している。そのギャップが、私の胸をどうしようもないほど愛おしさで満たしていった。
──
その日の夜。
訓練の疲れを癒すため、マルタが用意してくれた特製の薬草風呂に入った私は、すっきりと軽い足取りで城のテラスへと向かった。
夜のリヴィエールは、王都のそれとは比べ物にならないほど美しい。
空を見上げれば、天の川が文字通り光の帯となって夜空を横切っており、満月の光が、遥か眼下を流れるリヴィエール川の川面を銀色に染め上げていた。風は少し冷たかったけれど、訓練の熱が残る私の身体には、それが心地よかった。
「夜風に当たって、また魔力枯渇で倒れる気か」
不意に聞こえてきた声に振り返ると、テラスの入り口に、高価な漆黒の外套を持ったラインハルトが立っていた。彼は私の肩に、その大きな外套を無言でふわりとかけてくれた。
外套からは、彼の部屋と同じ、白檀の深い香りと彼の体温がそのまま残っていて、私は包まれるだけで胸がいっぱいになった。
「ありがとうございます、ラインハルト様。あなたも、まだお仕事ですか?」
「いや、今夜の分の書類はすべて片付けた。お前が昼間に台帳を完璧に整理しておいてくれたおかげでな。……役人たちも、お前のことを『大河の聖女』と呼び始めて、完全に信奉しているぞ。私の立場がないくらいだ」
ラインハルトはテラスの手すりに寄りかかり、遠い川面を見つめながら、フッと低く笑った。その横顔には、昼間の厳しい領主の面影はなく、どこか寂しげで、しかし優しい、一人の青年の素顔があった。
「聖女だなんて、滅相もありません。私はただ、これ以上誰かの言いなりになって傷つくのが嫌で、必死に走っているだけですから。……でも、この土地の人々は本当に温かいですね。王都では、誰もが私を『没落した哀れな女』か『ジュリアン様の飾り人形』としてしか見てくれませんでした。ここでは、私がエルリアとして流した汗の分だけ、みんなが笑ってくれる。それが、何よりも嬉しいのです」
私の言葉に、ラインハルトはしばらく沈黙を守っていた。
やがて、彼は組んでいた手を解き、私の隣へと一歩、距離を詰めた。私たちの肩が、彼の外套越しにかすかに触れ合う。
「エルリア。お前は……そのジュリアンという男を、かつては愛していたのか?」
その問いかけは、あまりにも唐突で、そしてどこか切実な響きを含んでいた。
私は驚いて彼を見上げた。ラインハルトの群青色の瞳が、月光を浴びて怪しく、しかし深く揺れている。そこにあるのは、領主としての疑問ではない。一人の男としての、明確な「独占欲」と「嫉妬」の混ざり合った、熱い光だった。
「いいえ」
私は迷わずに、はっきりと言い切った。
「一度だって、あの人を愛したことはありません。あったのは、ただの依存と、恐怖だけです。あの人が私に与えたのは、冷たい檻と、私の心を削り取る言葉だけでした。……私が本当の温かさを知ったのは、この土地に来てからです。マルタが支えてくれて、領民たちが受け入れてくれて、そして……」
私は言葉を詰まらせ、顔を赤らめながらも、ラインハルトの瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
「ラインハルト様。あなたが、私の手を引いて、私の覚悟を認めてくださったからです。あなたに出会えていなければ、私は今でも、あの燃え盛る王都の片隅で、絶望して泣いていたに違いありません。だから……私の心にあるのは、あなたへの感謝と……その……」
それ以上の言葉は、恥ずかしさで喉に詰まってしまった。
けれど、私の想いは、その潤んだ瞳を通じて完全に彼に伝わっていた。
ラインハルトは息を呑むと、私の肩にかけられていた外套ごと、私の身体をその太い腕で強く抱き寄せた。
彼の胸に顔が埋まり、彼の激しい、狂おしいほどの心音が耳元で鳴り響く。
「……もう言うな、エルリア」
彼の声は、掠れていて、今にも壊れそうなほどに熱かった。
「お前をあの王都の男に渡すわけがない。お前がこのリヴィエールで、私の側で生きると決めたのなら、私はこの命を懸けてもお前を守る。ジュリアンが何百の兵を率いてこようと、我がアステル騎士団の全戦力をもって、奴らをこの土地の手前で叩き潰す。……お前は、私の大切な……」
彼が「大切な」のあとに続けようとした言葉。それが何であるかを察した瞬間、私の胸はち切れんばかりの幸福感で満たされた。
横暴な婚約者に虐げられ、すべてを失った私。けれど今、私はこの世界で最も強くて、最も不器用で優しい人の、唯一無二の存在になれたのだ。
月光の下、私たちは静かに抱き合い、お互いの体温を確かめ合っていた。この美しい夜が、永遠に続けばいいのに。そう願わずにはいられなかった。
しかし、運命の女神は、私たちにこれ以上の甘い猶予を与えてはくれなかった。
「――ラインハルト様! 緊急事態です!」
テラスの扉が激しく開かれ、息を切らした斥候の騎士が飛び込んできた。
ラインハルトは瞬時に私を腕から離し、一瞬で冷徹な総大将の顔へと戻る。
「何事だ」
「国境の監視砦からの報告です! 東の間道を潜り抜け、我が領の国境線へと急接近する正体不明の武装集団を発見! 規模は約四百、重装騎兵を中心に、クロイツァー子爵家の紋章旗を掲げています!」
「ジュリアン……!」
私の口から、冷たい息が漏れた。
ついに、やってきたのだ。王都の崩壊を生き延び、狂気と執念に駆られた私の元婚約者が、私を、そしてこのリヴィエールの力を奪うために、その牙を剥いて国境へと迫っている。
「……フン、思ったよりも早い到着だな」
ラインハルトは腰の大剣の柄に手をかけると、獰猛な笑みを浮かべた。その瞳には、恐怖など一分もなく、ただ敵を迎え撃つための圧倒的な闘志が滾っていた。
「全軍に告げよ! 第一から第四小隊まで直ちに出陣の準備をせよ! 国境の『大蛇の峡谷』にて、あの哀れな王都の亡霊どもを迎え撃つ!」
「ハッ!」
騎士が脱兎のごとく走り去っていく。
ラインハルトは私を振り返ると、その大きな手で私の頬を優しく包み込んだ。
「エルリア。お前は城に残り、オズワルドたちと共に防衛陣地の構築を手伝え。……怖いか?」
私は彼の手に自分の手を重ね、真っ直ぐに首を振った。私の瞳には、もう涙も、怯えもない。あるのは、彼と共にこの土地を守り抜くという、本物の聖女の覚悟だけだった。
「いいえ、怖くありません。ラインハルト様、あなたを信じています。……どうか、ご無事で」
「ああ。お前が待っている場所に、必ず戻る」
ラインハルトは私の額に、一度だけ、誓いを刻むように深く熱い口づけを残すと、漆黒の外套を翻して、戦場へと向かって階段を駆け下りていった。
ついに始まる、過去との決戦。
横暴な婚約者ジュリアンとの完全な決別と、リヴィエールの未来を賭けた、最大の戦いの火蓋が今、切って落とされた。




