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夜空を切り裂くように、アステル砦の鐘が激しく鳴り響いていた。
それは領民たちに危機を知らせる警鐘であり、同時に、過去の因縁との戦いが始まったことを告げる合図でもあった。
ラインハルトが精鋭を率いて「大蛇の峡谷」へと出陣してから、わずか数時間。砦の中は、残された文官や騎士、そして開拓村から避難してきた難民たちでごった返していた。しかし、そこに以前のような無秩序なパニックはなかった。
「エルリア様! 救護所の設営、東翼の回廊でよろしいでしょうか!」
「はい、そちらの方が怪我人を運び込みやすいわ。マルタ、厨房から清潔な布と温かい湯をできるだけ集めて!」
「承知いたしました!」
私は、インクで汚れた事務服の袖をまくり上げ、砦の広間で次々と指示を出していた。
ラインハルトに「城を頼む」と言われたその瞬間から、私の中の弱さは完全に消え去っていた。かつて王都の屋敷で、ジュリアンの機嫌を伺いながら怯えていた私はもういない。今の私は、この土地に受け入れられ、守るべき人々を見つけた、一人の自立した人間なのだから。
避難してきた難民の女性や老人たちも、私が先頭に立って動く姿を見て、自発的に手伝いを始めてくれた。
「聖女様がついていてくださるんだ、私らも負けていられない!」
そんな声が聞こえるたび、胸の奥のサファイアが、まるで私の決意を讃えるようにじんわりと熱を帯びるのを感じた。
しかし、戦況は私たちの予想を超える速さで、最悪の展開へと傾いていった。
────
「――報告します! 搦手の地下通路が破られました! 敵の別動隊が城内に侵入!」
広間に飛び込んできた負傷した騎士の叫びに、辺りの空気が凍りついた。
「な、何ですって!? 大蛇の峡谷でラインハルト様が迎え撃っているはずでは……!」
「ジュリアンは本隊を囮にし、最初から少数の精鋭を率いて、アステル砦を直接強襲するルートを選んでいたようです! 奴らの狙いは、エルリア様、あなただ!」
その言葉が終わるよりも早く、広間の重厚な扉が、凄まじい爆発音と共に吹き飛んだ。
煙と炎が立ち込める中、数人の黒い甲冑を着た私兵を従え、一人の男がゆっくりと歩を進めてきた。
仕立ての良い、しかし戦火で薄汚れた王都の高級軍服。整った、けれど傲慢さと狂気に歪んだ容貌。そして、私を人間扱いしなかった、あの冷酷な、忘れもしない濁った瞳。
「――やっと見つけたぞ、俺のドブネズミ」
ジュリアン・クロイツァー。
かつて私を冷たい鳥籠に閉じ込め、心を切り刻み続けた元婚約者が、そこに立っていた。
「ジュリアン……様……」
一瞬、身体が硬直した。王都での三年間の恐怖が、呪いのように私の足元から這い上がってこようとする。
ジュリアンは私の怯え(と彼が勘違いしたもの)を見て、満足そうに口元を歪め、歪んだ笑みを浮かべた。
「ふん、相変わらずみすぼらしい格好だな、エルリア。サヴァラン家の没落令嬢が、こんな最果ての田舎で事務員まがいの真似事とは、笑わせる。……さあ、無駄な抵抗はやめて俺の元に戻れ。お前が盗み出したそのサファイアと、リヴィエール家の血脈。それさえあれば、俺は臨時政府の平民どもを皆殺しにし、再び王都の頂点へ返り咲くことができるのだ」
彼は私を人間として見ていない。ただの「便利な道具」として、自分を輝かせるための「飾り人形」として、再び私を支配しようとしているのだ。
ジュリアンが私に向かって、傲慢に右手を差し出す。
その瞬間、私の脳裏に、ラインハルトのあの言葉が、彼の熱い鉄腕の感触と共に蘇った。
『お前の本質は、そのように簡単に挫けるほど柔なものではないはずだ。違うか?』
『お前が私の側で生きると決めたのなら、私はこの命を懸けてもお前を守る』
(そうだ……。私は、もうあなたの操り人形じゃない。私は、ラインハルト様と共に生きる、エルリアよ!)
私は一歩、後ろに引くどころか、ジュリアンに向かって力強く一歩踏み出した。
「お断りいたします、ジュリアン様」
私の凛とした声が、広間に響き渡る。ジュリアンの笑みがピキリと凍りついた。
「なんだと……?」
「私はもう、あなたの檻には戻りません。ここは、不条理な身分も、あなたの傲慢も通用しない、リヴィエール領です。この土地の人々は、私を一人の人間として認めてくれました。そして……私には、命を懸けても守りたい、大切な人がいます!」
私は胸元のサファイアを強く握りしめた。
昼間、ラインハルトと共に訓練したあの感覚。彼が私の身体に流し込んでくれた、あの温かく力強い魔力の路を、今、自分の意志で一気に解放する。
「お前ごときが、俺に逆らうなぁぁ!」
激昂したジュリアンが腰の細剣を抜き、私に向かって突進してきた。彼の私兵たちも一斉に獲物を構える。
「――大河の雫よ、我が呼び声に応え、強固なる壁となれ!」
キィィィィン――!!
サファイアから、これまでにない爆発的な青い光が放たれた。
その光は瞬く間に広がり、私と、私の背後にいるマルタや難民たちを包み込むように、巨大で透き通った「水の結界」を形成した。それはまるで、激しく流れるリヴィエール川そのものを凝縮したかのような、圧倒的な美しさと硬度を持った聖なる防壁だった。
ドガァァァン!!
ジュリアンの一撃と私兵たちの攻撃が結界に激突する。しかし、光の壁はかすかに揺らぐことすらなく、彼らの攻撃の衝撃を完全に無効化し、それどころか、強烈な魔力の反発力となってジュリアンたちを弾き飛ばした。
「ぐわぁっ!? な、何だこの力は……! 魔法の才能などなかったはずのお前が、なぜ……!」
床に無様に転がったジュリアンが、信じられないものを見る目で私を凝視する。
「これが、あなたが『泥臭い野蛮人の血』と蔑んだ、リヴィエールの一族の本物の力です。誰かを蹂躙するためではなく、大切な人々を守るための、誇り高き力です!」
私は結界を維持したまま、ジュリアンを毅然と見下ろした。
かつて私を支配していた男は、今や恐怖と焦燥に顔を歪ませる、ただの哀れな権力への亡者に見えた。私の心の中から、彼に対する恐怖は、完全に一滴残らず消え去っていた。
「チッ……! 構うな、全員で一斉に攻撃しろ! 結界さえ破れば、ただの女だ!」
ジュリアンが狂ったように叫び、私兵たちが再び武器を構えた、その時だった。
「――我が城で、我が女に何をしてくれている、王都のゴミ虫どもが」
地獄の底から響くような、凄まじい威圧感を孕んだ低音が、吹き飛んだ扉の向こうから轟いた。
ザッ、と炎の中に現れたのは、漆黒の軽鎧に身を包み、身の丈ほどもある大剣を肩に担いだ、アステル辺境伯ラインハルトだった。
彼の髪は激しい戦いの風に乱れ、鎧には敵の返り血がいくつか付着していたが、その群青色の瞳は、目の前の侵入者たちを確実に屠るための、冷酷な死神の光を宿していた。
「ラ、ラインハルト様……!」
「待たせたな、エルリア。よく持ちこたえた。……お前のその美しい結界、遠くからでもよく見えたぞ」
ラインハルトは私に一瞬だけ、フッと不器用に、しかしこの上なく優しい笑みを向けた。そして、ジュリアンへと視線を戻した瞬間、その表情は一瞬で氷点下へと凍りついた。
「お、お前がアステルの……! なぜここにいる、本隊との戦闘中のはずでは……!」
ジュリアンが初めて、本気の恐怖に声を震わせた。
「我がアステル騎士団を侮るな。貴様が峡谷に放った囮など、半刻で全滅させた。……貴様が搦手から城を狙うことなど、最初から織り込み済みだ」
ラインハルトは大剣をゆっくりと構え、ジュリアンへと一歩ずつ歩み寄る。その一歩一歩が、地面を揺らすほどの圧倒的な質量を持っていた。
「私の領民を脅かし、私の城を汚し……何より、私のエルリアを傷つけようとした罪、その命を以て償ってもらう」
「ひ、ひぃっ……! くるな! 立ち向かえ、奴を殺せ――!」
ジュリアンが悲鳴を上げ、私兵たちを前に押し出す。しかし、不敗の辺境伯の敵ではなかった。
――ズバァン!
ラインハルトが横一文字に大剣を振るうと、凄まじい風圧と共に、私兵たちの武器ごと彼らの身体がまとめて吹き飛ばされ、壁に激突して気絶した。わずか一撃。次元の違う武の力が、そこにあった。
残されたのは、腰を抜かして床を這いずるジュリアン一人だけだった。
ラインハルトはジュリアンの目の前まで来ると、その喉元に、大剣の切っ先をぴたりと突きつけた。
「終わりだ、ジュリアン・クロイツァー。貴様の浅ましい野望も、ここで潰える」
「ま、待て……! 俺は子爵家の、クロイツァーの本家――」
「ここでは、その肩書きは何の意味も持たないと言ったはずだ」
私が一歩前に出て、毅然と告げた。
ラインハルトは私の顔を見やり、ニヤリと獰猛に笑うと、背後の騎士たちに合図を送った。
「そいつを縛り上げろ。従兄弟のギルバートと同じ地下牢へぶち込んでおけ。王都の新しい臨時政府に、身柄を引き渡す交渉の道具として使ってやる」
「離せ! 俺は貴族だ! エルリア、お前、俺の人形のくせに……離せぇぇぇっ!」
無様な叫び声を上げながら、ジュリアンは騎士たちによって引きずられていった。
彼が完全に視界から消えた瞬間、広間には、今度こそ本当の、静かで穏やかな静寂が戻ってきた。
────
水の結界を解いた私は、急激な安堵感から、その場にへたり込みそうになった。
しかし、床に落ちる前に、私の身体は、いつものあの暖かくて、少しザラザラとした大きな腕によって、しっかりと抱きとめられていた。
「エルリア……!」
ラインハルトが、大剣を床に放り出し、私を壊れ物を扱うように強く、強く抱きしめてくれた。彼の胸の奥から、ドク、ドク、と激しい心音が伝わってくる。それは戦いの興奮ではなく、私の無事を確かめられたことへの、彼なりの安堵の証拠だった。
「ラインハルト様……。私、やりました。あなたの言ってくれた通り、恐怖に負けずに、みんなを守れました」
「ああ、見事だった。遠くから城が青く輝くのを見た時、私の胸がどれほど誇らしさで震えたか……」
ラインハルトは私の背中に手を回し、さらに深く私を抱きすくめた。彼の白檀の香りが、私を完全に包み込む。
「お前はもう、誰の人形でもない。私の、そしてこのリヴィエール領の、かけがえのない……最高の女性だ」
「ラインハルト様……」
耳元で囁かれたその言葉に、私の目から、初めて嬉し涙が溢れ出た。
王都での苦しい日々、誰も信じられなかった暗闇。それらすべてが、目の前にいるこの不器用で、誰よりも強い辺境伯の温もりによって、完全に洗い流されていく。
周囲の難民や騎士たちから、地鳴りのような歓声と拍手が沸き起こる。
「大河の聖女様万歳!」
「辺境伯閣下万歳!」
その温かい祝福の光に包まれながら、私はラインハルトの胸の中で、静かに微笑んだ。
過去の呪縛を完全に断ち切った私は、この過酷で美しい辺境の大地で、自分の力で掴み取った自由と、そして、隣で不器用に私の髪を撫でてくれるこの人との本物の愛と共に、新しい未来へ向かって、強く歩み出していくのだった。




