夜の傷痕、月下の不器用な誓い
魔獣の脅威が去った村に、夕暮れの赤い光が斜めに差し込んでいた。
踏み荒らされた土の匂いと、倒れた魔獣から漂う魔力の残滓が、西風に乗って大河の方へと流れていく。難民たちの安堵の溜息と、村を救ってくれた騎士たちへの感謝の声が遠くで響く中、私の身体からは急激に緊張の糸が切れていこうとしていた。
「おい、エルリア。意識ははっきりしているか」
背後から、低く硬い声が降ってくる。
気がつけば、私は再びラインハルトの愛馬である黒馬の鞍の上に引き上げられていた。行きとは異なり、私の身体は完全に彼の漆黒の軽鎧に預けられるようにして、彼の大きな腕の中に収まっている。
先ほど、自らの意志で魔獣の前に立ちはだかり、力を発動させた時は、全身に熱い血が巡るような全能感があった。けれど、その奇跡的な光が消え去った瞬間、まるで身体中の魔力と体力を根こそぎ持っていかれたかのような、凄まじい虚脱感が私を襲ったのだ。自分の足で立っていることすらできず、膝から崩れ落ちそうになった私を、ラインハルトがすかさずその強靭な腕で抱きとめてくれたのだった。
「……はい、ラインハルト様。少し、身体が重いだけです……。ご心配をおかけして、申し訳ありません」
私がかすれた声で答えると、手綱を握る彼の両腕に、わずかに力がこもるのが分かった。胸板を通じて、彼の激しい鼓動が伝わってくる。それは、魔獣と戦っていた時の高揚の残り香なのか、それとも――私に対する、別の感情の揺れなのか。
「心配などしていない。お前にここで倒れられては、私の執務室の書類がまた山積みになるからな。……全く、二度とあのような無茶はするな。お前がどれほど危うい橋を渡ったか、分かっていないわけではあるまい」
彼の言葉は相変わらずぶっきらぼうで、皮肉が混ざっていた。けれど、その声は、最初に出会った時の国境の村での冷徹なものとは明らかに違っていた。そこには、明確な「焦燥」と、私を気遣う「熱」が含まれている。
私は彼の胸元にそっと頭を預け、夕日に染まるリヴィエール川を見つめた。
王都にいた頃、ジュリアンの馬車に乗る時は、いつも息が詰まるような沈黙か、彼の自慢話と私への罵倒を聞かされる時間だった。馬車の豪華なクッションですら、私にとっては針のむしろのようだった。
けれど今、泥と魔獣の返り血で汚れ、ゴツゴツとした鉄の鎧に背中を押し付けられているこの状況が、私の人生の中で最も暖かく、安全な場所に感じられるなんて、人生は本当に分からないものだ。
「……でも、あの親子が無事で、本当に良かったです」
「ふん。お前のその妙な頑固さと、目覚めた魔力のおかげだな。……エレーヌ様の『水の結界』。まさか、この目で再び見ることになるとは思わなかった」
ラインハルトは遠い目をしながら、馬の歩みを進めた。
アステル砦への帰路、騎士たちの隊列は静かに、しかし確実な足取りで進んでいった。夕闇が周囲の深い森を包み込み、夜の帳が下りる頃、私たちはようやく城の中庭へと帰還した。
──
「お嬢様――! ああ、神よ、ご無事でなにより……!」
馬が止まるやいなや、中庭の松明の光の中に、涙を流しながら駆け寄ってくるマルタの姿があった。彼女は私が泥だらけで、自分一人では馬から降りることもできない状態であるのを見て、悲鳴のような息を呑んだ。
「大丈夫よ、マルタ。怪我はしていないわ。ただ、少し疲れてしまって……」
私が弱々しく笑うと、ラインハルトが滑らかな動作で馬から降り、続いて私を横抱き――いわゆる、お姫様抱っこの形で腕の中に収めた。
「ラ、ラインハルト様!? 自分で歩けます!」
流石に恥ずかしくなって暴れようとしたが、彼の腕はまるで鉄の鋳造品のように微動だにしなかった。
「黙っていろ。足が震えているくせに、強がるな。……メイド、お前の主人の部屋へ案内しろ。医官を向かわせる」
「は、はい! こちらでございます!」
マルタは一瞬、ラインハルトのその過保護とも言える態度に目を丸くしたが、すぐにプロのメイドとしての顔に戻り、私たちの先頭を走って城の東翼へと案内してくれた。
城の使用人たちが、辺境伯みずからが泥だらけの事務員を抱きかかえて歩く姿を目撃し、廊下のあちこちで小さなざわめきが起こっていた。私の顔は、恥ずかしさと彼の体温のせいで、夜の闇の中でも分かるほど真っ赤に染まっていたに違いない。
私の部屋に到着すると、ラインハルトは私をベッドの上にそっと、まるで壊れやすいガラス細工でも扱うかのような手つきで横たえた。
すぐに城の老医官が駆けつけ、私の診察が始まった。
カーテンの向こうで、ラインハルトは腕を組んでじっと待機している。その威圧感のせいで、老医官も少し緊張した面持ちで私の脈を取り、瞳孔を確かめていた。
「……閣下、ご安心くだされ。エルリア様に外傷はございません。手の平の軽い擦り傷と、古傷が潰れた程度ですな。……ただ、体内の魔力を一気に消費されたことによる『魔力枯渇』の初期症状が見られます。これは、慣れない高位の魔法を発動した反動です。温かい食事を摂り、今夜ゆっくりと体を休めれば、明日には回復していくでしょう」
「そうか。……下がっていい」
「失礼いたします」
医官が退室し、部屋には私とラインハルト、そして少し離れた場所に控えるマルタだけが残された。
マルタは手際よく、医官が残していった薬草の軟膏を私の手に塗ろうとしたが、それを遮るようにラインハルトが一歩前に出た。
「マルタ。お前は厨房へ行き、このお嬢様のための温かいスープと、魔力回復に効く薬草茶を淹れてこい。……その傷の手当ては、私がやる」
「え……?」
「命令だ、行け」
ラインハルトの強い眼光に押され、マルタは私に「申し訳ありません」というような目配せを一度だけ残し、足早に部屋を出て行った。
バタン、と扉が閉まり、室内にはにわかに気まずい沈黙が流れる。
ラインハルトはベッドの脇にある椅子を引き寄せ、無言で腰掛けた。彼は手袋を外すと、机の上に置かれていた軟膏の小瓶を手に取り、私の右手をごく自然な動作で引き寄せた。
「あの、ラインハルト様……。一国の、いえ、一領の主であるあなたが、このような雑用係の手当てをするなんて、周囲に示しがつきません。マルタが戻るのを待って――」
「黙って手を出して、エルリア」
彼の声は低く、しかし逆らうことを許さない響きを持っていた。
私は小さく身を縮め、インクと泥で汚れ、小さなマメが潰れて赤くなっている自分の右手を、彼の前に差し出した。
ラインハルトの指先が、私の肌に触れる。
彼の指は、剣の訓練で鍛え上げられたタコがあり、少しザラザラとしていたけれど、驚くほどに繊細で、優しかった。冷たい軟膏を指先に取り、私の手の平の傷口へと、少しずつ、丁寧に広げていく。その一連の動作があまりにも慎重で、まるで私が痛がるのを極度に恐れているかのようだった。
「……痛むか?」
彼が視線を台帳から私へと移し、群青色の瞳で覗き込んできた。その距離があまりにも近く、私は息を呑んだ。
「いいえ……。冷たくて、気持ちいいです」
「そうか。……お前は、本当に無茶な奴だ。あの時、私の制止を聞かずに馬から飛び降りた瞬間、私の心臓がどれほど冷え切ったか、お前には想像もつかないだろうな」
ラインハルトは自嘲気味にフッと笑い、私の手の甲を包み込むようにして手を止めた。
「お前が持っているその首飾り……エレーヌ様の形見だな。リヴィエール家は、かつてこの大河の『水神の加護』を受け、その莫大な魔力で東の国境を何百年も守り続けてきた血筋だ。エレーヌ様が王都へ嫁がれた際、その血脈の力は失われたと思われていたが……。お前の胸の中で、完全に眠りについていたわけではなかったのだな」
「不思議力……。私は、自分がそんな力を持っているなんて、今日まで知りませんでした。王都では、魔法の才能など一言も言われたことはありませんでしたから」
「当然だろう。王都の魔導師どもが測定する魔力計など、宮廷魔法の規格に合わせたおもちゃに過ぎん。リヴィエール家の魔力は、土地の精霊や、何より『誰かを守りたい』という強い意志、自己の尊厳をかけた覚悟に呼応して初めて目覚めるものだ。……お前が今日、あの親子を守ろうとしたその心が、眠っていた大河の力を呼び覚ましたのだ」
ラインハルトの言葉を聞きながら、私は胸元のサファイアに手を当てた。今は静かに冷え切っているけれど、あの時、私を包み込んでくれた温かい光は、確かに母が私に残してくれた「愛」そのものだったのだ。
ジュリアンはいつも、私の母の血筋を『泥臭い辺境の野蛮人』と蔑んでいた。けれど、本当に高貴で、誰かを救うための本物の力を持っていたのは、王都の贅沢に溺れる貴族たちではなく、この厳しい自然の中で生きるリヴィエールの一族だったのだ。
「エルリア。お前がその力を発動させた以上、もうお前は単なる『王都から逃げてきた難民』ではない」
ラインハルトの表情が、再び厳格な統治者のものへと戻る。
「領民たちは、お前の中にエレーヌ様の面影と、確かな守護の力を見た。あの一帯の村々では、早くもお前を『大河の聖女』と称える声が上がり始めている。お前が望むと望まざるとに関わらず、お前はこのリヴィエール領にとって、非常に重要な存在となった」
私は緊張で身体を強張らせた。また、別の「鳥籠」に入れられるのではないかという、過去のトラウマが頭をよぎったからだ。
しかし、ラインハルトは私のその不安を察したように、私の手を少しだけ強く握り締めた。
「誤解するな。私はお前を、あの王都の男のようにお前の意志を無視して利用するつもりはない。お前を飾り人形にするつもりも毛頭ない。お前が私の執務室で、自分の力でパンを得たいと言うのなら、私はその意思をどこまでも尊重する。……だが、お前を狙う脅威からは、私が全力でお前を守る。それは、この土地の領主としての義務であり、そして……」
彼はそこで言葉を切り、群青色の瞳の奥に、言葉にできないほどの深い情熱を漲らせた。
「……私個人の、意志でもある」
「ラインハルト様……」
その言葉の重みに、私の胸は激しく高鳴った。
彼が私のことを、一人の労働者としてだけでなく、一人の「女性」として、特別な目で見つめ始めていることが、その熱い手のひらから、真っ直ぐに伝わってきた。
その時、コンコンと静かなノックの音が響き、マルタがスープの盆を持って戻ってきた。
ラインハルトは名残惜しそうに、しかし素早く私の手を離すと、立ち上がって普段の冷淡な仮面を被り直した。
「手当ては終わった。今夜はしっかり食って、休め。明日、体調が戻っていれば、地下牢のギルバートの尋問結果について、お前に話すことがある」
「ギルバート様の……尋問ですか?」
「ああ。王都の情勢について、あの男の口からかなり不穏な情報が飛び出してきた。お前の元婚約者……ジュリアン・クロイツァーに関する話だ」
ジュリアンの名前を聞いた瞬間、私の背筋に冷たい風が走った。
ラインハルトは私の不安を打ち消すように、最後に一度だけ私の頭を大きな手でぽんぽんと不器用になでると、漆黒の外套を翻して部屋を出て行った。
──
翌朝、医官の言葉通り、私は驚くほどすっきりと目を覚ました。
マルタが淹れてくれた薬草茶の効果もあったのだろう、体内の魔力も満たされ、手の傷も軟膏のおかげですっかり塞がっていた。
私は昨日と同じ灰緑色の事務服に身を包み、再び最上階の執務室へと向かった。
扉を開けると、そこには昨日と変わらない光景――書類の山に向かうラインハルトの姿があったが、私の姿を見るなり、彼はペンを置いた。
「体調は良いようだな、エルリア」
「はい、ラインハルト様。お陰様で、傷もすっかり治りました。本日からまた、難民の書類整理を再開いたします」
「その前に、昨日言った『尋問結果』について共有しておく」
ラインハルトは私に椅子に座るよう促すと、一枚の暗号文が書かれた羊皮紙を提示した。
「昨日、地下牢にぶち込んだギルバートを我が方の尋問官が徹底的に絞り上げた。あの男は根性がなくてな、少し脅しただけですべてを吐き出した。……王都は、完全に崩壊したそうだ」
「え……? 完全に、ですか?」
「ああ。お前が脱出したあの夜の暴動が引き金となり、平民出身の兵たちが一斉に反乱軍へと寝返った。王宮は炎上し、現国王は退位を余儀なくされ、現在は平民たちによる『暫定政権』が王都を掌握している。旧来の貴族たちの多くは捕らえられ、財産を没収された」
私は言葉を失った。あの絢爛豪華で、繁栄を誇ると言われていた王都が、わずか数日の間にこれほどあっけなくひっくり返ってしまったなんて。もし、私がマルタの言葉を聞かずにあの屋敷に留まっていたら、今頃はどうなっていたことか。背筋が凍るような思いだった。
「では、ジュリアン様はどうされたのですか? 彼は……近衛の幹部たちと繋がっていたはずですが」
「そこが問題だ」
ラインハルトの瞳が、一段と鋭さを増す。
「ジュリアン・クロイツァーは、暴動の直前に本家の莫大な財産と、私兵の精鋭数百名を率いて、いち早く王都を脱出していた。臨時政府の追手から逃れるためでもあるが……ギルバートの話によれば、ジュリアンの目的地は、他でもないこの『リヴィエール領』だ」
「この土地へ……!? なぜ、そんなことを……」
「目的は二つ。一つは、お前を連れ戻すこと。そしてもう一つは……お前が持つ『鍵』を奪い、リヴィエールの大河に眠る古代の膨大な魔力源を我が物にするためだ」
ラインハルトの言葉に、私は息を呑んだ。
ジュリアンは、私が逃げ出したことに気づき、激怒しているだけではないのだ。彼は最初から、サヴァラン伯爵家が持っていたリヴィエールの利権、そして私が受け継いでいた力の価値を、どこかで知っていたのかもしれない。だからこそ、没落した私を自分の傍に囲い込み、完全に支配しようとしていたのだ。
王都を失った彼が、最後の逆転をかけて、私とこのリヴィエールを奪いにやってくる。
「彼は……ジュリアン様は、とても執念深く、目的のためには手段を選ばない冷酷な男です。数百名の私兵を率いているとなれば、この領地にとっても大きな脅威になります。……ラインハルト様、私のせいで、またこの土地に災いが――」
私が責任を感じて俯きかけると、ラインハルトはフンと鼻を鳴らし、机を強く叩いた。
「馬鹿を言うな、エルリア。何度も言わせるな。お前一人のせいで領地が動くわけではない。ジュリアンという男は、遅かれ早かれ我が領の豊かな資源を狙って侵略してくる予定だったのだろう。お前の失踪は、あいつにとって格好の言い訳に過ぎん。……それに」
ラインハルトは立ち上がり、私の前に歩み寄ると、私の顎をその大きな手でそっと持ち上げ、無理やり顔を上げさせた。
その群青色の瞳には、一切の迷いも、恐怖もなかった。そこにあるのは、圧倒的な守護者としての、そして一人の男としての、絶対的な誓いの光だった。
「言ったはずだ。お前を狙う脅威からは、私が全力でお前を守ると。数百の私兵など、我がアステル騎士団の敵ではない。ジュリアンがこの土地へ足を踏み入れた瞬間、我が大河の藻屑にしてくれる。お前は何も恐れる必要はない」
「ラインハルト様……」
彼の指先から伝わってくる温度が、私の凍りつきそうだった心を、一瞬で溶かしていく。
ジュリアンの呪縛。それは長年、私を暗闇の中に閉じ込めていた。けれど、目の前にいるこの漆黒の辺境伯は、その呪縛をその大剣で一刀両断にしてくれる。
私は初めて、過去の恐怖に対して、本当の意味で決別する覚悟を決めることができた。
「はい。私はもう、ジュリアン様の影に怯えたりはしません。私は私の意志で、ここに残ります。そして、私の目覚めた力がこの土地の人々を救うためになるのなら、私は喜んで、ラインハルト様、あなたの力になります」
私の真っ直ぐな宣言に、ラインハルトは一瞬、眩しいものを見るかのように目を見開いた。そして、彼の冷徹な美貌に、これまでで最も温かい、心からの笑みが浮かんだ。
「よく言った。……ならば、今日も早速働いてもらおう。難民の書類整理が終わったら、次はお前のその魔力のコントロール方法について、我が城の魔導師たちを交えて訓練を始める。覚悟しておけよ、エルリア」
「はい! 望むところです!」
私は笑顔で答え、自分の事務机へと向かった。
窓の外には、今日も変わらず、雄大なリヴィエール川が美しく輝いている。
不穏な戦火の足音は近づいているかもしれない。けれど、私の心には、もう一分の曇りもなかった。
自分の足で立ち、本当の責任と自由、そして……私の隣で不器用に微笑むこの人との間に芽生えた、本物の恋。それらを守るために、私は新しい人生の、本当の戦いへと向かって進んでいくのだ。




