大河の咆哮、鉄腕の温度
「馬を回せ! 乗り遅れるな!」
アステル砦の中庭は、瞬時にして戦場の前線へと変貌していた。
金属同士が擦れ合う高い音、慌ただしく行き交う騎士たちの怒号、そして興奮に前足を掻き鳴らす軍馬たちの荒い鼻息。それらが一体となり、張り詰めた緊張感となって肌を刺す。
普段の静けさは完全に吹き飛び、辺境の厳しい現実がその牙を剥き出しにしていた。
私が案内されたのは、一頭の巨大な黒馬の前だった。ラインハルトが戦場で常に駆るという、主の体躯に負けないほど雄大で、漆黒の毛並みを持った駿馬だ。その鋭い眼光は、まるで乗り手の気性をそのまま写し取ったかのようだった。
「……ラインハルト様、私は……」
別の馬を用意してもらえるものだと思っていた私は、思わず足を止めて言い淀んだ。王都の令嬢として最低限の乗馬の嗜みはある。けれど、それは平坦に整えられた芝生の上を、おとなしい牝馬に乗って優雅に散歩するためのものだ。このような、戦場へ赴くための猛々しい軍馬を御せるはずがなかった。
そんな私を振り返り、ラインハルトはフッと鼻を鳴らした。
「お前用の馬など用意している時間はない。それに、王都の温室育ちのお前を一人で馬に乗せれば、現場に着く前に落馬して首の骨を折るのがオチだ。……乗れ。足手まといになるなと言ったはずだ」
彼はそう言うと、鎧に包まれた屈強な腕で、私の腰をいとも簡単に抱え上げた。
軽い浮遊感のあと、私は黒馬の鞍の前方へと押し上げられる。続いて、背後から凄まじい威圧感と共に、重厚な気配が迫ってきた。ラインハルトが滑らかな動作で私の背後に跨ったのだ。
「あ……」
思わず小さな悲鳴が漏れた。
背中から伝わってくる、彼の胸板の圧倒的な厚みと硬さ。彼が手綱を握るために両腕を伸ばすと、私は完全に彼の頑強な腕の檻の中に閉じ込められた形になった。
王都の夜会でジュリアンとダンスを踊った時にも、これほど男性という存在感を近くに感じたことはなかった。ラインハルトが動くたびに、彼の纏う冷たい匂いと、どこか異国を感じさせる白檀のような、深い香りが鼻腔をくすぐる。
さらに、彼の胸の奥から響く、ドク、ドク、という力強く、規則正しい心音が、私の背中を通じて直接脳裏にまで届くようだった。
「しっかり掴まっていろ。振り落とされても拾ってはやらない」
耳元で低く響いた彼の声に、私の身体はビクリと跳ね上がった。その息遣いが首筋をかすめ、顔が急激に熱くなる。しかし、恥ずかしがっている暇はなかった。
「出発する! 遅れるな!」
ラインハルトが鋭く叫び、黒馬の腹を蹴った。
その瞬間、視界が弾け飛ぶような衝撃と共に、私たちは猛然と走り出した。
「――っ!」
あまりの速度に、私は思わずラインハルトの黒い軽鎧の胸元へとしがみついた。
アステル砦の城門を駆け抜け、馬車では何時間もかかったあの起伏の激しい間道を、騎士たちの集団は信じられない速さで駆け抜けていく。
風が刃物のように顔を叩き、髪が激しく乱れる。景色が物凄い速度で後ろへと流れ去っていく。もし、背後にいるこの人が腕を緩めれば、私は一瞬で宙に放り出され、地面に叩きつけられるだろう。その恐怖から、私は必死に彼の鎧を握りしめ、目を瞑った。
「目を開けろ、エルリア」
風の音に混ざって、ラインハルトの冷静な声が降ってきた。
「恐怖に目を瞑る者は、決して生き残れない。お前は自分の足で生きるためにここへ来たのだろう。ならば、これから向かう現実から目を逸らすな」
その言葉は、冷たいけれど、私の胸の奥に眠っていた意地に火をつけるには十分だった。
(そうよ……。私は、もう怯えるだけの弱者じゃない。自分で選んだ道なのだから、何が起きても見届けなければ……!)
私は奥歯を噛み締め、ゆっくりと目を開けた。
視界に飛び込んできたのは、太陽の光を浴びて輝くリヴィエールの雄大な自然と、その中を果敢に突き進む騎士たちの姿だった。
不思議なことに、一度目を開けて前を見据えると、あれほど恐怖だった速度が、徐々に心地よいものへと変わっていくのを感じた。
かつて、ジュリアンの馬車に乗せられていた時、私はいつもカーテンを閉め切られ、暗闇の中で彼の罵倒に怯えていた。あの密室は、私にとって窒息しそうな檻だった。
けれど今、私が浴びているこの激しい風は、私をどこまでも遠くへ連れて行ってくれる「自由」そのものだった。私の身体を支えるラインハルトの鉄腕は、冷たいけれど、決して私を裏切らない圧倒的な安心感を持って、私を包み込んでいた。
「……前を見ていられるようになったな」
ラインハルトが、かすかに喉を鳴らして笑ったような気がした。
「まもなく現場だ。村は、あの崖の先にある」
彼の言葉通り、馬たちが最後の坂を駆け上がると、目の前の視界が一気に開けた。そこには、リヴィエール川の支流に沿って作られた、美しい木造の家々が並ぶ開拓村が広がっていた。
しかし、その平和な村は今、硝煙と悲鳴に包まれていた。
────
「うわあああっ! 助けてくれ!」
「魔獣だ! 柵が破られたぞ!」
村の広場には、何台もの古びた馬車が急停車しており、そこから逃げ惑う難民たちの悲鳴が響き渡っていた。
彼らを襲っていたのは、一般的な猪の数倍の大きさを誇る魔獣の群れだった。頑強な漆黒の毛皮に覆われ、口元からは城門をも粉砕しそうな巨大な牙が突き出ている。それが五、六頭、目を血走らせて難民たちの馬車や家々へと突進を繰り返していた。
現地の兵士が槍を構えて応戦していたが、魔獣の圧倒的な質量と突進力の前に、防衛線は今にも崩壊しそうだった。
そして、その混乱の中心、ひときわ頑丈で豪華な(しかし泥にまみれた)王都風の馬車の屋根の上で、一人の男が金切り声を上げていた。
「おい! 賤民ども! 私を盾にしろと言っているだろう! 私はクロイツァー子爵家のギルバートだぞ! 私の身に何かあれば、お前たちの命などでは償いきれんのだぞ!」
その声、その傲慢な態度を聞いた瞬間、私の身体に不快な鳥肌が立った。
ジュリアンではない。だが、声の質や他人を見下す特有のイントネーションは、彼と酷似していた。報告の通り、ジュリアンの従兄弟にあたる、クロイツァー家の分家の嫡男、ギルバート・クロイツァーだった。
彼は王都の暴動から命からがら逃げ出してきたのだろう。しかし、ここが王都から遠く離れた辺境であり、自分の身分など何の意味も持たないという現実を理解できず、護衛の騎士たちを自分の肉壁にしようとして、現場の統制を完全に破壊していたのだ。
「……愚か者が」
ラインハルトが低く吐き捨てた。その声には、底知れない怒りと軽蔑が満ちていた。
「第一、第二小隊、展開! 魔獣の群れを分断し、各個撃破せよ! 難民の救護を最優先だ!」
「ハッ!」
ラインハルトの号令と共に、アステル領の騎士たちが一斉に馬を走らせ、魔獣の群れへと斬り込んでいった。彼らの動きは無駄がなく、一糸乱れぬ連携で魔獣の注意を難民から逸らしていく。
ラインハルトは私を乗せたまま、黒馬を広場の中央へと進めた。
一頭の巨大な魔獣が、私たちの接近に気づき、地面を蹄で蹴りながら、凄まじい咆哮を上げて突進してきた。その突進の風圧だけで、並の人間なら腰を抜かすだろう。
「ラインハルト様――!」
「案ずるな。しっかり捕まっていろ」
ラインハルトは片手で手綱をしっかりと保持したまま、もう片方の手で背中の大剣を抜いた。
身の丈ほどもある巨大な鋼の剣が、太陽の光を浴びて閃光を放つ。
魔獣が目と鼻の先に迫った瞬間、ラインハルトは愛馬を巧みに操り、突進の軌道からわずかに身をかわした。そして、すれ違いざまに、大剣を真一文字に振り下ろした。
――ズバァン!
凄まじい肉声の断裂音。
鉄をも切り裂くラインハルトの一撃は、魔獣の強靭な首を一刀のもとに叩き斬っていた。巨獣の巨体が、慣性のまま地面を転がり、土煙を上げて動かなくなる。
片手だけで、これほどの威力の剣を振るうなんて。私はその圧倒的な武の力に、ただ息を呑むことしかできなかった。これが、最前線でこの土地を守り続けてきた、守護者の本物の力なのだ。
「おい、お前! ぼさっとするな!」
その時、馬車の屋根の上からギルバートが叫んだ。彼はラインハルトの強さを見るや否や、それがこの地の領主であると気づいたようで、必死に手を振ってきた。
「私は王都の貴族だ! 早く私を安全な場所へ連れて行け! この下賎な難民どもなど放っておけ!」
その醜悪な叫び声に、周囲の難民たちが絶望と怒りの目を向ける。しかし、ギルバートのその自分勝手な行動が、最悪の事態を引き起こした。
彼の金切り声に刺激されたのか、物陰に潜んでいたもう一頭の、さらに巨大な魔獣が、難民の子供たちが身を寄せ合っている一角へと向かって、猛然と突進を始めたのだ。
「ああっ! 子供たちが!」
騎士たちは他の魔獣の対処に追われており、距離がある。警備兵も倒れ、子供たちの前には、怯えて動けない母親が一人いるだけだった。
「しまっ――」
ラインハルトが馬を転回させようとしたが、こちらの位置からも距離が足りない。このままでは、あの親子が魔獣の牙に蹂躙されてしまう。
(ダメ……! そんなの、絶対にダメ!)
その瞬間、私の頭からすべての恐怖が消え去った。
気がつけば、私はラインハルトの腕の制止を振り切り、馬の鞍から地面へと飛び降りていた。
「エルリア! 何を考えている、戻れ!」
背後からラインハルトの怒鳴り声が聞こえたが、私の足は止まらなかった。
インクで汚れた事務服のスカートを翻し、私は必死に走り、魔獣と親子の間に割って入った。
「逃げて! 早く!」
子供を抱きかかえる母親に叫ぶ。しかし、その時にはすでに、魔獣が目の前に迫っていた。むき出しになった黄色い牙。
王都での、ジュリアンの冷酷な目が脳裏をよぎる。
『お前には何の価値もない。誰かを守る力など、お前のようなネズミにはないのだ』
(違う……! 私は、もうあの頃の無力な私じゃない! 誰かの犠牲の上に生き延びるくらいなら、私は私の意志で、この人々を守るために立ち向かう!)
私は両手を広げ、魔獣の突進を正面から受け止めるように立ちはだかった。
その時だった。
私の胸元で、亡き母の形見であるペンダントが、突如として爆発的な、そしてどこか温かい青い光を放ち始めた。
「――え?」
ペンダントから溢れ出た光は、瞬く間に私の前方に広がり、半透明の巨大な輝く「壁」を形成した。大河の流れをそのまま固定したかのような、美しくも強固な水の結界。
魔獣がその光の壁に、真っ正面から激突した。
凄まじい衝撃音が響き渡り、地面が激しく揺れる。しかし、光の壁は一歩も退くことなく、魔獣の突進のエネルギーを完全に相殺してみせた。衝撃をモロに受けた魔獣は、脳震盪を起こしたように目を回し、その場にガタガタと崩れ落ちる。
「これは……?」
私は自分の胸元のペンダントを見つめた。ペンダントは、まるで私の「誰かを守りたい」という強い意志に呼応したかのように、優しく明滅を繰り返していた。リヴィエール直系の血に眠る、本物の魔力。それが、今になって目覚めたのだ。
「――下がれ、エルリア!」
上空から、落雷のような声が響いた。
次の瞬間、黒馬と共に空中を舞うように現れたラインハルトが、大剣を両手で構え、気絶しかけていた魔獣の脳天へと、容赦なく突き立てた。
ドォン、と重い音を立てて、最後の魔獣が完全に沈黙する。
周囲の騎士たちも残りの魔獣を仕留め終え、広場にはにわかに静寂が戻ってきた。難民たちのすすり泣く声と、騎士たちの荒い息遣いだけが響く。
ラインハルトは大剣を引き抜くと、すぐに馬から飛び降り、大股で私の方へと歩み寄ってきた。その顔は、これまでに見たことがないほど、怒りと……そして、どこか焦燥に満ちていた。
「お前は……! 一体何を考えている!」
彼は私の両肩を、痛いほどの強さで掴んだ。
「素人が戦場に飛び出して、魔獣の前に立ちはだかるなど、自殺行為だぞ! もしあのペンダントの魔力が発動していなければ、お前は今頃肉片になっていたんだぞ! 自分がどれほど無茶をしたか分かっているのか!」
彼の怒声が響き渡る。けれど、その掴まれた手から伝わってくるのは、怒りだけではなかった。
驚くほどに、彼の大きな手が小刻みに震えていた。
冷徹で、不敗の辺境伯と呼ばれたこの人が、私の命の危機に対して、本気で恐怖し、狼狽えてくれている。その事実が、私の胸を激しく締め付けた。
「……申し訳ありません、ラインハルト様」
私は彼の怒りを受け止めながら、静かに、しかしはっきりと微笑んだ。
「ですが、私は後悔していません。あの親子を、見殺しには出来ませんでした。……それに、私は信じていました。私が時間を稼げば、あなたが必ず、私を助けてくださると」
「お前……」
ラインハルトは言葉を失い、群青色の瞳を大きく見開いた。私の真っ直ぐな視線に、彼は気圧されたように、ゆっくりと私の肩から手を離した。そして、きまずそうに顔を背け、頭を乱暴にかきむしった。
「……ハ、本当に、とんでもないじゃじゃ馬だな。エレーヌ様も、これほど無鉄砲ではなかったぞ」
彼の言葉には、呆れと共に、明確な信頼の情が混ざり始めていた。
「おい! お前たち! いつまで泥臭い平民の女と話しているんだ!」
その時、未だに馬車の屋根の上にいたギルバートが、空気を読まずに怒鳴り散らした。
「魔獣が片付いたなら、早く私を案内しろ! 私はクロイツァー家の――」
私はラインハルトの前に一歩踏み出し、ギルバートを見上げた。
旅の泥に汚れ、インクで黒くなった私の手。けれど、今の私の胸には、リヴィエールの民を守り抜いたという誇りと、母から受け継いだ確かな力が宿っている。
ジュリアンの幻影への恐怖は、もう完全に消え去っていた。
「お久しぶりですね、ギルバート様」
私の凛とした声に、ギルバートは初めて私の方を凝視した。そして、その顔が驚愕で引きつっていく。
「え……? お、お前は……エルリア!? なぜ、ジュリアン兄様のドブネズミ人形が、こんな最果ての田舎にいるんだ!?」
「私はもう、誰の人形でもありません」
私は彼を見据え、はっきりと、一文字ずつ告げた。
「ここは、王都の不条理も、クロイツァー家の傲慢も通用しない、リヴィエール領です。身分を笠に着て、領民たちの避難を妨げ、命を危険に晒したあなたの罪は重い。……アステル辺境伯閣下、この男の処遇を、どのようにいたしますか?」
私が振り返ると、ラインハルトはニヤリと、獰猛な肉食獣のような笑みを浮かべていた。
「決まっている。我が領の法に従い、難民の安全を脅かした罪人として、即座に拘束する。……おい、そいつを縛り上げろ。城の地下牢へぶち込んでおけ」
「な、なんだと!? 私は貴族だぞ! 離せ! 離せ――っ!」
ギルバートが騎士たちに組み伏せられ、無様に叫びながら連行されていく。
それを見送りながら、周囲の難民たちから、ワァッと地鳴りのような歓声と拍手が巻き起こった。
「ありがとうございます、アステル様! ありがとう、事務員のお嬢さん!」
「あのお嬢さんは、エレーヌ様の光を使われたぞ! エレーヌ様の娘様だ!」
人々が私を取り囲み、感謝の言葉を投げかけてくれる。その温かい光景の中で、私は自分が本当にこの土地に受け入れられたのだと、心の底から実感していた。
「……よくやった、エルリア」
騒ぎの喧騒の中、ラインハルトが私の隣に並び、誰にも聞こえないほどの低い声で呟いた。
彼の手が、私のインクで汚れた手を、そっと不器用になぞる。手袋を外した彼の素手の皮膚は、硬くて、だけど驚くほどに熱かった。
「お前のそのペンダントの光……そしてお前自身の覚悟。どうやら、本当に本物のようだな。……見事だった」
「ラインハルト様……」
彼から向けられた、初めての、一切の皮肉のない心からの称賛。
その群青色の瞳の奥に、私への深い情熱と、特別な感情が灯り始めているのを、私は確かに感じ取っていた。
王都の鳥籠を抜け出した私は、この過酷で美しいリヴィエールの大地で、自分の力で居場所を勝ち取り、そして……この不器用で誰よりも強い辺境伯との間に、本物の絆を紡ぎ始めようとしていた。




