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【連載完結】さようなら、不自由な私。  作者: 逆立ちハムスター


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4/8

始まりの朝、小さな一歩

王都の朝は、いつも重苦しい空気と、どこか冷ややかな聖堂の鐘の音で始まっていた。

窓の外には、煤けた灰色のレンガ造りの街並みと、お互いを監視し合うような貴族たちの視線。私はベッドの中で、今日一日をどうやって「ジュリアン様の機嫌を損ねずに生き延びるか」という恐怖の計算を、目覚めの一瞬で行うのが常だった。


けれど、リヴィエールで迎えた初めての朝は、まるで別世界のものだった。


「……ん……っ」


鳥の瑞々しい囀りが、開け放たれた窓から滑り込んでくる。肺いっぱいに吸い込んだ空気は、かすかに川の匂いと、朝露に濡れた草木の香りが混ざり合っていて、驚くほど軽かった。

私が目を覚ましたのは、アステル砦の東翼にある、古いけれど驚くほど手入れの行き届いた客室だった。

部屋の調度品は、王都の屋敷にあったような金箔の装飾や、座るだけで沈み込むような絹のソファではない。頑丈なオーク材で作られたクローゼットに、シンプルな木製の机と椅子。ベッドのシーツも、上質な麻で作られた素朴なものだった。

だが、そのシーツからは、太陽の光をたっぷりと浴びて干されたような、温かくて香ばしい匂いがした。それだけで、私の心がじわりと満たされていく。


「お目覚めですか、エルリアお嬢様」


静かなノックの音と共に、聞き慣れた温かい声が響いた。扉を開けて入ってきたのは、すでにきっちりとメイド服を着こなしたマルタだった。彼女の手には、湯気の立つ陶器の洗面器と、一枚の衣服が握られている。


「おはよう、マルタ。……ふふ、お嬢様、はもう終わりよ。これからはただの『エルリア』として呼んでちょうだい。ラインハルト様にも、そう言われたのだから」


私がベッドから起き上がりながら微笑むと、マルタは少しだけ寂しそうな、しかし誇らしそうな複雑な笑みを浮かべた。


「いいえ、お嬢様。人前ではもちろん『エルリアさん』とお呼びいたしますが、私とお嬢様が二人の時くらいは、どうか『お嬢様』と呼ばせてください。それが、サヴァラン家に、そしてエレーヌ様に仕えた私の誇りでございますから」


「マルタ……。ありがとう。あなたのその頑固さには、本当に敵わないわね」


私は苦笑しながらも、彼女の深い忠誠心に胸を熱くした。


マルタが用意してくれたのは、城の洗濯係から支給されたという、地味な灰緑色の事務服だった。装飾としてのフリルやレース、身体を締め付ける窮屈なコルセットは一切ない。しっかりとした厚手の綿で作られたブラウスに、足捌きの良いロングスカート。

それを身に纏い、鏡の前に立った。

王都にいた頃の私は、ジュリアンの好みに合わせて、淡いピンクやパステルブルーの、いかにも「無力で守られるべき」お人形のようなドレスばかりを着せられていた。けれど、この地味な事務服を着た鏡の中の私は、どこかすっきりと引き締まって見えた。


「とても、よくお似合いです。お嬢様がご自身の足で立つための、初めての衣装ですね」


「ええ。何だか、本当に新しい人生が始まるんだって、実感が湧いてきたわ」


私は自分の手を握り締め、手の平にできた旅のマメをそっと愛おしむように触れた。

よし、と小さく気合を入れ、私は部屋を出て、ラインハルトのいる最上階の執務室へと向かった。


朝の城内は、すでに活気に満ちあふれていた。

廊下を歩けば、大きな洗濯物籠を抱えた女性たちや、磨き上げられた槍を手にした兵士たちとすれ違う。王都の屋敷では、使用人たちは皆、主人の目を恐れて足音を消し、幽霊のようにコソコソと動いていた。しかし、このアステル砦の人々は違った。

皆が生き生きと、そして自分の仕事に誇りを持って、しっかりと足音を響かせて歩いている。

すれ違う際、彼らは私が昨日連行されてきた「王都の没落令嬢」だと知っているはずなのに、蔑むような目は向けなかった。それどころか、「おはようございます」と、気さくに声をかけてくれる者さえいた。それだけで、私の緊張は少しずつ解けていった。


最上階の執務室の前に立ち、私は深呼吸を一つして、重厚な木製の扉を叩いた。


「エルリアです。本日より着任いたしました」


「――入れ」


中から聞こえてきたのは、昨日と変わらない、低く地鳴りのように心地よい声だった。

扉を開けて中に入ると、そこにはすでに山のような書類に囲まれ、凄まじい速度でペンを走らせているラインハルトの姿があった。

朝の柔らかな光が窓から差し込み、彼の艶のある漆黒の髪をかすかに茶色く縁取っている。横顔は相変わらず冷徹なほどに整っていたが、その目の下に、わずかに疲労の陰が見えることに気づいた。彼は一体、いつからここで仕事をしているのだろうか。


ラインハルトは私の姿を見ると、一度ペンを置き、その群青色の瞳で私を上から下まで値踏みするように一瞥した。


「ふん。王都の派手なドレスを脱ぎ捨てると、随分と貧相に見えるな」


開口一番のその皮肉に、私は一瞬ムッとしたが、すぐに背筋を伸ばして微笑み返した。これくらいの嫌がらせ、ジュリアンの陰湿な罵倒に比べれば、そよ風のようなものだ。


「お褒めいただきありがとうございます、ラインハルト様。動きやすさを重視した結果です。本日より、どのような仕事でも仰せ付けください」


「口の減らない奴だ。……いいだろう、お前の最初の仕事はそこにある」


ラインハルトが顎で示したのは、部屋の隅にある、私の背丈ほどもある大きな木箱だった。中には、埃を被った古い書類や、殴り書きされたような羊皮紙が、文字通り溢れんばかりに詰め込まれている。


「それは、ここ数ヶ月の間に王都や他領から流れてきた、難民たちの申請書の束だ。我が領の役人たちも人手不足でな。名前、出身地、特技、家族構成ごとに分類する作業が完全に滞っている。お前にはそれを、こちらの棚にある台帳にすべて正確に記録し、分類してもらう」


「難民の方々の、書類……」


私は木箱に近づき、一枚の羊皮紙を手に取った。そこには、慣れない手つきで書かれた平民たちの名前や、彼らが抱える切実な事情が記されていた。王都の暴動から逃れてきた者、重税に耐えかねて土地を捨てた者。それは、つい数日前までの私自身の姿そのものだった。


「どうした。王都のお嬢様には、平民の汚い手書きの文字を読むのは苦痛か?」


ラインハルトが試すような視線を向けてくる。私は首を振った。


「いいえ。むしろ、私にとって非常に親しみを感じる書類です。彼らも私も、生き延びるためにこの土地へ辿り着いたのですから。……すぐに取り掛かります」


私は木箱の横に用意されていた小さな机に座り、早速作業を始めた。


それは、想像以上に地道で、過酷な作業だった。

王都の貴族たちの書類であれば、美しい宮廷文字で整然と書かれている。しかし、難民たちの書類は違う。掠れたインク、汚れた紙、時には文字が書けない者が他人に代筆してもらったような、乱雑な筆跡も多かった。

それを一枚一枚、丁寧に読み解き、内容を整理していく。


サヴァラン伯爵家が健在だった頃、私は父の書斎で、領地管理の書類をほんの手伝い程度に触ったことがあった。その時の僅かな経験と、貴族として叩き込まれた高度な読解力が、今になって役に立とうとは思いもしなかった。

ジュリアンはいつも『お前の教養など無駄だ』と言っていたけれど、そんなことはない。私が学んできたことは、今、このリヴィエールで、誰かを助けるための力になる。


カリカリ、と静かな執務室に、私のペン音と、ラインハルトのペン音だけが響き渡る。


集中していると、時間の経過を完全に忘れてしまった。

気がつけば、窓から差し込む光の色が、朝の白から、昼の黄金色へと変わっていた。私の手はインクで黒く汚れ、肩はガチガチに凝り固まっていたが、不思議と充実感で満たされていた。木箱の中の書類は、すでに半分近くが綺麗に分類され、台帳に収まっている。


「……おい」


突如、頭上から降ってきた声に、私はビクリと肩を揺らした。

見上げると、いつの間にか席を立ったラインハルトが、私の机の前に立ち、私が整理した台帳を覗き込んでいた。


「はい!」


「……妙な声を出すな。」


ラインハルトは不機嫌そうに眉をひそめたが、その視線は台帳のページに釘付けになっていた。


「これは……お前が一人でやったのか?」


「はい。何か、不手際がございましたでしょうか……?」


私は不安になり、思わず身を縮めた。王都での癖で、何かを指摘されると、すぐに「叱責される」と身構えてしまうのだ。

しかし、ラインハルトから返ってきたのは、予想外の言葉だった。


「不手際どころか、完璧だな。……王都の宮廷文字の書式を応用しつつ、一目で難民の『労働力』としての価値が分かるように分類されている。特に、鍛冶屋や大工などの職人持ちを赤インクで色分けしているのは、今後の領地開発の計画において非常に助かる」


彼は感心したように台帳をめくり、最後に私をじっと見つめた。その群青色の瞳には、明らかな驚嘆の色が混ざっていた。


「正直に言う。お前がここまでやれるとは思っていなかった。半日も経てば、手が痛いだの、目が疲れただのと泣き言を言い出し、逃げ出すものとばかり思っていた。……見くびっていたよ、エルリア」


ラインハルトのその言葉は、冷淡ではあったけれど、私という人間の労働を真っ直ぐに認めてくれるものだった。

ジュリアンのように、私の人格を否定し、支配するための言葉ではない。私の成果に対する、正当な評価。

その事実が、私の胸にじわりと熱い温もりを広げていく。


「……嬉しいです」


「何がだ?」


「私のした仕事が、ラインハルト様のお役に立てたことが、です。王都では、私が何をしても『無駄だ』としか言われませんでしたから。自分の手が汚れるほど働いて、それを認めてもらえることが、こんなに心地いいものだなんて、知りませんでした」


私はインクで汚れた自分の指先を見つめながら、はにかむように笑った。

ラインハルトは私の笑顔を見て、一瞬だけ言葉を詰まらせたように目を見開いた。そして、気まずそうにふいと顔を背けると、小さく咳払いをした。


「……ふん。お前が仕事中毒なのは勝手だが、我が城では使用人に昼食を摂らせないような真似はさせていない。ほら、これを持っていけ」


彼が私の机の上にコトリと置いたのは、小さな木製のバスケットだった。中を開けると、まだ温かい焼き立てのパンと、たっぷりの干し肉、そして瑞々しい林檎が一つ入っていた。


「これは……?」


「厨房の者が、お前の分も用意したと言って持ってきた。私はすでに自分の分を平らげた。さっさと食え。腹が鳴っている者など、執務室に置いておきたくない」


彼はぶっきらぼうにそう言うと、自分の机へと戻っていった。

だけど、私は知っている。厨房の者が、わざわざ最上階の執務室まで、私のためだけに食事を届けるはずがない。きっと、ラインハルトが事前に指示を出してくれていたのだ。

冷徹に見えて、この人は本当に不器用な優しさを持っている。ジュリアンのような、優しさの仮面を被った冷酷さとは、正反対の温かさ。


「ありがとうございます。遠慮なくいただきます」


私は温かいパンを一口齧った。小麦の素朴な甘みが口いっぱいに広がり、涙が出そうになるほど美味しかった。


昼食を終え、午後からの作業を再開しようとした時、執務室の扉が激しく叩かれた。


「ラインハルト様! 緊急の報告がございます!」


入ってきたのは、血相を変えた一人の若い騎士だった。ラインハルトの表情が、一瞬で戦鬼のそれへと変わる。


「どうした」


「リヴィエール川の下流にある第二開拓村にて、王都からの難民を乗せた馬車が、近隣の森から現れた魔獣の群れに襲撃されました! 現在、現在国境警備隊が応戦していますが、負傷者が出ている模様です!」


「何だと……!」


ラインハルトが激しく机を叩いて立ち上がった。


「難民の規模は? 護衛の数はどうなっている!」


「難民は約三十名、大半が婦女子です! 護衛の傭兵は数名しかおらず、このままでは被害が拡大します!」


不穏な空気が執務室を支配する。私は息を呑み、言葉を失った。難民たちが襲われている。ついさっきまで、私が書類の中でその名前や家族構成を見ていた、あの人々が、今まさに命の危機に瀕しているのだ。


「私が直接出る。直接状況を把握したい。二小隊を招集しろ。即座に現場へ急行する」


ラインハルトが壁に掛けられた剣を手に取り、漆黒の外套を翻した。その圧倒的な決断力と行動力。彼は戦う領主としての本領を発揮しようとしていた。

しかし、その時、報告に来た騎士が言い淀んだ。


「閣下、一つ問題が……。現地からの報告によると、襲撃された難民の中に、自分が『王都のクロイツァー子爵家の関係者である』と主張し、周囲の避難を妨げて暴れている男がいるとのことです。その男が護衛の指示を無視して勝手な行動を取ったため、陣形が崩れ、魔獣の侵入を許してしまったと……」


「クロイツァー子爵家……!?」


その名前を聞いた瞬間、私の脳裏に冷たい稲妻が走った。全身の血の気が引き、心臓が爆発しそうなほど激しく脈打ち始める。

ジュリアン。いや、彼本人ではないかもしれない。けれど、クロイツァー家の者が、このリヴィエールに現れた……? 目的は、まさか、私の捜索のため――?


ラインハルトの群青色の瞳が、鋭く私を射抜いた。その目は、私が何かを隠しているのではないかと、再び疑念の光を宿しているようだった。


「エルリア。お前、何か知っているか? クロイツァー家が、これほどの速さでこの土地へ追っ手を差し向けてくる心当たりは」


「わ、分かりません……! ですが、もし彼らが私の行方を追ってきたのだとしたら……」


私は恐怖で声が震えそうになるのを、必死に抑え込んだ。ここで逃げ出してはいけない。私のせいで、リヴィエールの人々や、無関係な難民たちが傷つくなんて、絶対に許せない。


「ラインハルト様!」


私は一歩前に出た。自分の足がガタガタと震えているのが分かったけれど、それでもラインハルトの瞳を真っ直ぐに見つめ返した。


「私を、連れて行ってください!」


「何だと? お前のような素人が戦場に来て何になる。足手まといだ」


「現場で暴れているという男が、本当にクロイツァー家の者であれば、私が顔を出せば大人しくなる可能性があります! 彼は私を連れ戻す、あるいは私に関する何らかの目的を持って動いているはずです。それに、私はその男の性格や、クロイツァー家の兵の戦術の癖を少しは知っています。必ず、お役に立てます!」


私は必死に訴えた。もう、誰かの後ろで守られているだけの存在には戻りたくなかった。自分の過去がもたらした災いなら、自分の手でカタをつけたい。


ラインハルトは私の言葉を聞き、数秒間、じっと私を睨みつけた。その沈黙は永遠のようにも感じられた。

やがて、彼はフッと鼻を鳴らし、大剣を背中に背負った。


「……いいだろう。だが、絶対に私の後ろから離れるな。お前が死ねば、書類の整理をする奴がいなくなって困るからな」


「はい! ありがとうございます!」


「急ぐぞ。馬を出せ!」


ラインハルトの鋭い号令と共に、私たちは執務室を飛び出した。

王都の支配、ジュリアンの影、そして新しい土地での危機。すべてが急速に動き始める。

けれど、私の心に、もうかつてのような絶望はなかった。私の横には、背中を預けるに足る、圧倒的に信頼できる若き辺境伯がいる。


私は彼と共に、自分の運命を変えるための戦いへと、初めての一歩を踏み出すのだった。

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