檻を抜けた鳥、果てなき東の路
決行の夜までの三日間は、まるで鋭い刃の上の綱渡りをしているようだった。
私は朝、鏡の前でマルタに髪を結われながら、自分の顔が極度の緊張で強張っていないかを何度も確認した。ジュリアンの前では、これまで以上に「従順で無知な人形」を演じ続けなければならない。彼に一瞬でも不審を抱かれれば、すべてが水の泡となり、私は二度と陽の光を見ることのできない暗室に閉じ込められるか、あるいはもっと凄惨な報復を受けることになるだろう。
その日の夜、ジュリアンは珍しく私をディナーに同席させた。
お抱えの料理人が作った最高級の鴨のローストが並んでいたが、私の喉は砂を噛むように干からびていて、味など全く分からなかった。
「おい、エルリア。相変わらず貧相な食い方をするな。私の妻になる者が、そんな細い身体では困る。もっとも、お前のような没落令嬢を正式な夜会に連れ出すのは、まだ先のことになりそうだがな」
ジュリアンは銀のナイフで肉を乱暴に切り裂きながら、鼻で笑った。
「申し訳ありません、ジュリアン様。少し、胸が使えてしまいまして……」
「ふん、贅沢病か。まあいい。明日から私は、近衛騎士団の幹部たちとの極秘の会合で、二日ほど屋敷を空ける。王都の治安維持についての話し合いだ。あの愚民どもが小賢しい動きを見せているからな。お前は私がいない間、無駄な外出はせず、この屋敷で大人しくしていろ。分かったか?」
「はい。言いつけ通りにいたします」
私は深く頭を下げ、歓喜を必死に押し殺した。
(明日から二日間、彼が不在になる……!)
これ以上ない、天が与えてくれた好機だった。ジュリアンは民衆の暴動を警戒しているようだが、その傲慢さゆえに、自分の足元――つまり、私が逃げ出すなどとは微塵も思っていないのだ。彼はどこまでも、私を自分に依存しきった無力な存在だと侮り、過信していた。
翌日、ジュリアンが数人の従者を連れて大仰に馬車で出かけていくのを、私は部屋の窓から見送った。
馬車の音が遠ざかり、完全に聞こえなくなった瞬間、私は室内に戻り、待機していたマルタと視線を交わした。言葉は要らなかった。私たちは無言で、しかし電光石火の速さで動き始めた。
「お嬢様、こちらへ」
マルタがクローゼットの奥から取り出したのは、貴族の令嬢が着るようなフリルやレースのついたドレスではなかった。地味な濃紺の、仕立てのしっかりとした平民用の旅着だった。コルセットを外し、動きやすい綿の衣服に袖を通したとき、それだけで身体が驚くほど軽くなったのを覚えている。
持ち出す荷物は、本当に最小限に留めた。
サヴァラン伯爵家が没落した際、ジュリアンの目を盗んでマルタが密かに保管しておいてくれた、母エレーヌの形見であるサファイアのペンダントと、いくつかの小さな宝石類。それらは王都以外の土地で暮らすための、当面の生活資金となる。
「屋敷の使用人たちには、『お嬢様は風邪をこじらせ、部屋で休養されている。ジュリアン様の言いつけ通り、誰も部屋に近づけてはならない』と伝えてあります。彼らもジュリアン様の命令には絶対服従ですから、明日の夜までは誰もこの部屋の扉を開けようとはしないでしょう」
「ありがとう、マルタ。本当に、あなたがいなければ私は何もできなかったわ」
「いいえ、お嬢様。これからはご自身の足で歩むのです。さあ、夜が更けるのを待ちましょう」
深夜、王都が深い闇と静寂に包まれた頃、私たちは行動を開始した。
かつては煌びやかだったサヴァラン家の旧邸(今はクロイツァー家の管理下にある)の、使われていない勝手口から外へと這い出る。夜の空気は冷たく、肺に吸い込むたびに緊張で心臓が跳ね上がった。
裏路地には、マルタが手配してくれた一台の古びた辻馬車が待機していた。御者台に座っているのは、年配の、しかし鋭い眼光を持った男だった。マルタが事前に事情を説明してあるという。
「乗ってください、お嬢様。急ぎましょう」
マルタに促され、私は馬車へと飛び乗った。
ガタゴトと音を立てて、馬車が動き出す。窓の隙間から外を見ると、見慣れた王都の美しい街並みが、夜の闇の中でどこか不気味に沈んでいるのが見えた。
街灯の光が届かない路地裏には、何人もの平民たちが集まり、松明の火を囲んで何事かを話し合っている。その目は誰もが血走り、不満と怒りに満ちていた。マルタの言った通り、この街は本当に爆発寸前なのだ。
馬車は東の城門へと向かった。ここを抜ければ、王都の外へと出られる。しかし、最大の難関がそこにあった。
「止まれ! どこの馬車だ!」
松明を掲げた数人の門兵が、馬車を制止した。私の心臓が、喉から飛び出しそうなほど激しく脈打つ。ジュリアンの息のかかった者がいれば、ここで一発で終わりだ。私は旅着のフードを深く被り、座席の隅で身を縮めた。
マルタが冷静に窓を開け、門兵に話しかける。
「夜分遅くに申し訳ありません。私は東の近郊にある農場の者です。主人が急病で倒れまして、王都の薬師から急ぎ薬を譲り受け、戻るところでございます。どうか通していただけないでしょうか」
「農場だと? こんな夜更けに怪しいな。最近は上からの達しで、夜間の臨検が厳しくなっているんだ。中の奴の顔を見せろ」
門兵が不機嫌そうに馬車の扉に手をかけた。その瞬間、私は絶望で目の前が真っ暗になりかけた。もし顔を見られれば、いくら平民の服を着ていても、貴族特有の肌の白さや身のこなしで怪しまれる。
しかし、その時だった。
遠くの下町の方角から、ドーンという低い爆発音と、それに続く人々の怒号が響き渡った。
「なんだ!? 何が起きた!」
門兵たちの視線が一斉に王都の内側へと向く。夜空の一部が、赤黒く染まり始めていた。暴動が、予定よりも早く始まってしまったのだ。
「おい! 第四区で平民どもが暴動を起こしたそうだ! 全員、鎮圧の応援に回れ!」
遠くから別の兵士が叫びながら走ってくる。城門を守っていた門兵たちは、私たちの馬車のことなど完全に忘れ、色めき立って武器を手に取り、街の内側へと駆け出して行った。
「……今です! 出してください!」
マルタが御者に鋭く叫ぶ。御者が鞭を振るうと、馬は激しく嘶き、まだ完全に閉まっていなかった城門の隙間を猛然と駆け抜けた。
ガタガタと馬車が激しく揺れ、私たちは王都の外へと放り出された。
後ろを振り返ると、巨大な石造りの城門の向こうで、赤く燃え盛る炎が夜空を焦がしているのが見えた。あの中に、私を閉じ込めていた鳥籠がある。そして明日には、私の失踪に気づいたジュリアンが狂ったように激怒するだろう。
けれど、もう遅い。私はあの壁の外へと出たのだ。
「……無事に抜けましたね、お嬢様」
マルタがホッとしたように息を吐き、私を見て微笑んだ。その顔を見て、私はようやく自分が生きていることを実感し、涙がポロポロと溢れ出て止まらなくなった。
「ええ……ええ、マルタ。私たち、本当に逃げ出せたのね……!」
私はマルタの身体にすがりつき、声を殺して泣いた。それは恐怖の涙ではなく、何年も、ずっと胸を締め付け続けていた重圧から解放された、歓喜の涙だった。
────
王都を離れてからの旅路は、これまでの私の人生の中で、最も過酷で、そして最も新鮮なものだった。
ジュリアンから追っ手が差し向けられる可能性を考慮し、私たちは主要な街道を避け、あえて舗装されていない古い間道を東へと進んだ。
当然、貴族用の豪華な宿場町などは使えない。夜は寂れた村の小さな旅籠に泊まり、時には馬車の中で夜を明かすこともあった。
ベッドは固く、部屋は狭く、夜風が隙間から吹き込んできた。王都にいた頃なら、考えられないような劣悪な環境だ。
けれど不思議なことに、私の心は驚くほど穏やかだった。
朝、ジュリアンの不機嫌な足音に怯えて目覚める必要がない。彼から「無価値な女」と罵られることもない。ただそれだけで、固いベッドでの眠りは、王都の最高級の天蓋付きベッドでの眠りよりも、遥かに深く私を癒してくれた。
食事も簡素なものだった。
固い麦パンに、塩気の強い干し肉、そして干し野菜を煮込んだだけの薄いスープ。
最初は戸惑ったものの、旅の疲れでお腹を空かせて食べるその食事は、ジュリアンの顔色を伺いながら口に運んでいた高級なフランス料理よりも、何倍も美味しく感じられた。
「お嬢様、手の平を見せていただけますか」
旅に出て五日目の夜、小さな宿の灯りの下で、マルタが私の手をそっと取った。
そこには、慣れない旅のせいで、いくつかの小さなマメができていた。
「申し訳ありません。お労しいことに、このような生傷を作らせてしまうなんて……。やはり、無理をさせてしまっているでしょうか」
マルタが痛ましそうに眉をひそめるのを見て、私は首を振って微笑んだ。
「いいえ、マルタ。私はこのマメが、少しだけ誇らしいのよ」
「誇らしいのですか?」
「ええ。これはね、私が自分の意思で歩んでいる証拠よ。ジュリアン様の人形だった頃の私は、傷つくことさえ許されず、ただ飾られているだけだった。でも今は違う。自分の手で荷物を持ち、自分の足で進んでいる。この痛みは、私が自由になった証なの」
私の言葉に、マルタは目元を少し潤ませながら、嬉しそうに頷いた。
「お嬢様は、本当に強くなられましたね。エレーヌ様がご覧になったら、きっとお喜びになります」
「お母様……。ねえ、マルタ。リヴィエール領って、本当はどんなところなの? 王都では、誰もが『最果ての不毛な土地』だって言っていたけれど」
私が尋ねると、マルタは遠い目をしながら、懐かしそうに語り始めた。
「王都の貴族たちは、魔導具や華美な装飾品があることだけが『豊かさ』だと思い込んでいます。ですが、リヴィエールは違います。あそこには、見渡す限りの美しい緑と、冷たく澄んだ川が流れています。土地は肥えており、麦も野菜も豊かに実ります。何より、人々が温かいのです。お互いに助け合い、自然の恵みに感謝しながら生きています。エレーヌ様はよく、仰っていました。『王都の夜会で交わされる偽りの笑顔よりも、領民たちが流す一滴の汗のほうが、遥かに美しい』と」
マルタの話を聞いているうちに、私の胸の中に、まだ見ぬ故郷への憧れが膨らんでいった。
母が愛し、守ろうとした土地。そこでなら、私も「エルリア」という一人の人間として、本当の人生を築いていけるかもしれない。
旅を続けて十日ほどが経った頃、馬車の窓から見える景色が、明らかに変わり始めた。
乾燥した茶色い平原が続き、徐々に標高が上がっていく。切り立った岩山の合間を抜けると、突如として、目の前の視界が圧倒的な「緑」で満たされた。
「お嬢様、ご覧ください!」
マルタの声に促され、私が馬車の窓から身を乗り出すと、そこには息を呑むような絶景が広がっていた。
どこまでも続く、瑞々しい深い森。その中央を、太陽の光を浴びて銀色に輝く巨大な大河が、うねるように流れている。遥か彼方には、残雪を頂いた雄大な山々がそびえ立ち、まるでその土地を守る守護神のように鎮座していた。
王都の、あの人工的で息の詰まるような灰色の景色とは、完全に異なる生命の息吹。
風が運んでくる空気は、草木の青臭さと、水の冷たさを孕んでいて、胸いっぱいに吸い込むと身体の隅々まで清められるような感覚がした。
「綺麗……なんて、美しいところなの……」
私は言葉を失い、ただその景色に見惚れていた。
「あの大河の名が『リヴィエール』。そして、あの川の流域に広がる土地すべてが、お嬢様の母方の故郷、リヴィエール領でございます」
馬車は坂道を下り、緑の海へと飛び込んでいった。
間もなくして、私たちは領地の入り口にある、小さな国境の村へと到着した。石造りの素朴な家々が並び、道行く人々は皆、麻の素朴な衣服を着ている。しかし、その表情は王都の平民たちのように暗く沈んではおらず、誰もが生き生きとした笑顔を浮かべていた。
馬車が村の広場で止まると、見慣れない馬車の到着に、数人の村人たちが不審そうに、しかし好奇心に満ちた目で集まってきた。
御者が馬車を降り、村の長らしき初老の男性に声をかける。
「遠方から旅の者だ。少し、この村で休息をいただきたい」
「おや、見慣れない馬車だな。王都の方から来たのかい? あそこは今、えらい騒ぎになっていると風の噂で聞いたが……」
村長が怪訝そうに馬車の中を覗き込もうとした。
私は意を決して、馬車の扉を開け、地面へと降り立った。フードを外し、村人たちの前に姿を現す。
王都の洗練された令嬢の身のこなしは、隠そうとしても端々に出てしまう。村人たちは、私の立ち姿や、旅着の下から覗く白い肌を見て、一瞬で「ただの旅人ではない」と察したようで、ざわざわと私語を交わし始めた。
「おや……、あんた、一体……」
村長が困惑したように私を見つめる。
私は一歩前に出ると、胸元から、母の形見であるサファイアのペンダントを取り出し、彼に見せた。深海のような深い青色の輝きを放つ、サヴァラン伯爵家、そしてリヴィエール家の血を引く者だけが持つ、特別な意匠が彫られた宝石だ。
「突然の訪問を、どうかお許しください。私は、エレーヌ・ド・リヴィエールの娘、エルリアと申します。王都での政変を逃れ、母の故郷であるこの土地へ、命からがら辿り着きました」
私の言葉に、広場が水を打ったように静まり返った。
村長は目を見開き、私の顔と、そのペンダントを何度も往復して見つめた。やがて、彼の目の奥に、信じられないほどの驚きと、そして深い熱情が灯るのが分かった。
「エ、エレーヌ様の……お嬢様……? 東の聖女様の、お子様なのか……!?」
村長の声が震えていた。
その場にいた他の村人たちも、一斉に騒ぎ出す。
「おい、本当か!? あの方のエレーヌ様の娘さんだって!?」
「ああ、見ろよ、あの綺麗な金髪と青い目……。まるで、エレーヌ様と瓜二つだ。エレーヌ様が戻ってこられたようだ!」
「エレーヌ様には、本当に感謝してもしきれねえんだ。あの時の飢饉から、俺たちの村を救ってくれたのはあの方だ……!」
村人たちの間に、敵意やつまはじきにするような空気は一切なかった。それどころか、誰もが涙ぐみ、神に感謝するように両手を合わせ、私を歓迎しようとしていた。
「よくぞ……よくぞ、ご無事でリヴィエールへおいでくださいました、エルリア様!」
村長がその場に跪き、私の手を両手で包み込んだ。その手は、農作業で鍛えられたゴツゴツとした固い手だったが、ジュリアンのどの言葉よりも、遥かに温かく、私を包み込んでくれた。
「エレーヌ様の娘御であれば、私たちは命を懸けてもお守りいたします。ここでは貴族も平民も関係ない。みんな家族のようなものです。さあ、長旅でお疲れでしょう、まずは我が家へ! 粗末なものですが、温かい食事を用意させます!」
「ありがとうございます……。本当に、ありがとうございます……」
私は胸がいっぱいになり、何度も何度も頭を下げた。
王都でジュリアンから聞かされていた「野蛮人の巣窟」という言葉が、いかに浅ましく、歪んだ嘘であったかを、私は今、身をもって知った。
ここには、私を必要としてくれる人がいる。母の愛した、本物の温もりがここにある。
マルタと顔を見合わせると、彼女もまた、満足そうに微笑んでいた。
しかし、私たちが村長の家に案内されようとした、その時だった。
広場の向こうから、地響きのような激しい馬蹄の音が近づいてきた。村人たちが「何事だ?」と色めき立つ。
現れたのは、数騎の騎馬隊だった。彼らは王都の兵ではなく、このリヴィエール領を統治する領主直属の騎士たちのようだった。その先頭を走る一頭の黒馬が、私たちの前でピタリと止まる。
馬の背に跨っていたのは、一人の若い男だった。
艶のある漆黒の髪に、凍てつく冬の夜空のような、鋭く、しかし深い群青色の瞳。引き締まった体躯には、無駄のない黒い軽鎧を纏っており、ただそこにいるだけで周囲の空気を圧するような、圧倒的な存在感を放っていた。
冷徹な美貌を持ったその青年は、集まる村人たちを一瞥すると、最後に馬車の前に立つ私へと視線を止めた。
その瞳に射抜かれた瞬間、私は言葉を失い、身体が硬直した。ジュリアンとは全く違う、本物の「強者」が持つ威圧感。
「――村長。王都からの密入国者がいるとの報告を受けて来たが……。その娘が、そうか?」
彼の低く、地響きのように心地よい、しかし冷徹な声が広場に響き渡った。
私の新しい人生の扉が開かれたリヴィエール領で、私は、この冷徹な瞳を持つ青年騎士と、最悪の、そして運命的な出会いを果たすことになる。




