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さようなら、不自由な私。  作者: 逆立ちハムスター


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重厚なマホガニーのテーブルに、ガタリと乱暴な音が響いた。

きらびやかなカットグラスの中で、琥珀色の最高級ブランデーが激しく揺れ、数滴が白いテーブルクロスにしみを作っていく。目の前に座る私の婚約者――ジュリアン・クロイツァー子爵令息。彼は不機嫌さを隠そうともせずに鼻を鳴らした。


「おい、エルリア。お前はまた私の話を上の空で聞いていたな? だから身寄りのない女は困るのだ。令嬢としての最低限の嗜みすら、とうに忘れてしまったのか」


「……申し訳ありません、ジュリアン様。少し、考え事をしておりました」


私はすぐに視線を落とし、深く頭を下げた。

ここで少しでも弁解をすれば、彼の不機嫌はさらに加速する。この三年余りの間に、私は身を護るための術を嫌というほど学んでいた。反論せず、ただ従順な人形のように謝罪の言葉を口にする。それが、私がこの王都で生き残るための唯一の方法だった。


「ふん、考え事だと? お前のような世間知らずが考えることなど、どうせ今季のドレスのデザインか、せいぜい今日の茶会の愚痴だろう。気楽なものだな」


ジュリアンは冷ややかな笑みを浮かべ、椅子の背もたれに傲慢に寄りかかった。

端正な顔立ちをしてはいるが、その瞳には常に他人を値踏みし、見下すような陰湿な光が宿っている。彼が纏う豪奢な絹の外套も、私の目には彼自身の虚栄心を膨らませるための道具にしか見えなかった。彼は全能感に酔いしれて止まない。


「お前がこうして王都の一等地にある屋敷で、飢えることもなく優雅に暮らしていられるのは、誰のおかげだと思っている? 私がサヴァラン伯爵家の莫大な借財を肩代わりし、身寄りを亡くしたお前を婚約者として引き取ってやったからだ。それを忘れるなよ、エルリア」


「はい。深く感謝しております、ジュリアン様」


呪文のように、何度も繰り返してきた言葉が口をついて出る。

私の心は、すでにこの手の言葉に対して完全に麻痺していた。


三年前、私の両親は乗っていた馬車の転落事故で突如としてこの世を去った。残されたのは、放漫経営によって膨れ上がった莫大な借金と、まだ成人したばかりの私一人。親戚一同は蜘蛛の子を散らすように逃げ出し、サヴァラン伯爵家は事実上の破産に追い込まれた。

貴族としての身分を失い、路頭に迷う恐怖。お嬢様育ちで何一つ社会の仕組みを知らなかった私は、ただ怯えることしかできなかった。


そこに救いの手を差し伸べたのが、クロイツァー子爵家の次男であるジュリアンだった。

彼はサヴァラン家の借金を清算し、私を自分の「保護下」に置いた。周囲からは、不幸な没落令嬢を救った慈悲深い貴公子と称賛されたが、その実態は優し固められた救済などではなかった。

彼はただ、自分の言いなりになる「サヴァラン伯爵家の看板と、物言わぬ飾り人形」が欲しかっただけなのだ。


それからの日々は、静かな地獄だった。

ジュリアンは事あるごとに私の無知を嘲笑い、両親の管理不足を責め、私がどれほど無価値で、彼に依存しなければ生きていけない存在であるかを刷り込み続けてきた。

『お前には価値がない』

『私が捨てれば、お前は明日の食事にも困るドブネズミになるのだ』

そう言われ続けるうちに、私の心は徐々に削り取られ、いつしか「ここから逃げ出せば、私は生きていけない」と思い込む(洗脳)ようになっていた。貴族としての体面、そして何より飢えへの恐怖が、私をこの冷酷な男の傍らに縛り付けていた。


「おい、聞いてるのかエルリア」


「は、はい……ジュリアン様」


「……まあいい。それより、最近の王都の様子はどう思う? お前の耳にも、下賤な小娘(令嬢)どもの騒がしい噂が入っているだろう」


ジュリアンが不機嫌そうに眉をひそめながら、窓の外へと視線を向けた。

その言葉に、私の胸の奥がドクンと嫌な高鳴りを見せる。それこそが、先ほどまで私が「考え事」をしていた理由そのものだったからだ。


「ええ……。最近は、市場の方でも、不作による物価の高騰に対する不満が強まっていると聞きます。夜間には、一部の過激な平民たちが集会を開いているという噂も……」


「ふんっ、くだらん」


ジュリアンは私の言葉を遮るように、吐き捨てるように言った。


「愚民どもがどれだけ群がり吠えようと、皇帝陛下より遣わされた王宮の近衛兵(ヴァリャーグ部隊)が動けば一瞬で鎮圧される。税が上がった程度でガタガタと騒ぎおって、これだから貧乏人は浅ましいのだ。おい、エルリア。お前は間違っても、そんな薄汚い平民どものデモなどに同情的な目を向けるなよ。お前は私の婚約者なのだから、常に毅然とした貴族の態度を保っていろ」


「……はい」


ジュリアンはそう楽観視しているが、私の目から見ても、最近の王都の空気は明らかに異常だった。

窓の外から聞こえてくる街の喧騒は、かつての活気あるものとは異なり、どこか低く、地響きのような怒りを含んでいる。食料品の価格は数倍に跳ね上がり、街角には飢えた人々が溢れ、治安は悪化の一途を辿っていた。それなのに、王宮の貴族たちは贅沢な夜会を繰り返し、民の困窮に目を向けようとしない。

風船が限界まで膨らみ、今にも弾けようとしている――そんな不穏な気配が、王都全体を包み込んでいるのを、私は肌で感じていた。


「では、私はそろそろ失礼する。今夜は別の侯爵家との会合があるのだ。エルリア、お前は部屋で刺繍でもして、ペネローペのように大人しく私の帰りを待っていろ」


ジュリアンは残ったブランデーを一口で飲み干すと、私の返事も待たずに席を立ち、部屋を出て行った。

バタン、と重い扉が閉まる音が響く。


その瞬間、私はようやく肺に溜まっていた熱い息を深く吐き出した。全身の緊張が解け、泥のように椅子に沈み込む。

一人になった応接室は、静まり返っていた。壁に掛けられた高級な絵画も、棚に飾られた銀製品も、すべてが私を閉じ込める鳥籠の格子のように見えた。


「……お疲れ様でございました、お嬢様」


静かな声と共に、部屋の隅の控えの間から、一人の女性が姿を現した。

すっきりとした黒いメイド服に、白いエプロン。乱れのないお団子髪にまとめた茶髪と、穏やかでありながら強い意志を宿した焦茶色の瞳。

私の唯一の味方であり、幼少期から私を支え続けてくれた専属メイドのマルタだった。


マルタは手際よく、ジュリアンが汚したテーブルクロスを片付け、私の前に新しく淹れた温かいハーブティーを置いてくれた。私の好きな、いつものカモミールの優しい香りが鼻腔をくすぐり、こわばっていた私の心がほんの少しだけ解きほぐされていく。


「ありがとう、マルタ。いつも、あなたには助けられてばかりね」


「滅相もございません。それが私の役目でございますから。……それにしても、ジュリアン様は今日も一段と手厳しいご様子でしたね」


マルタは周囲を気にするように少し声を潜め、私の顔を覗き込んできた。その瞳には、私を心から案じる温かさがあった。サヴァラン家が没落した時、他のすべての使用人が給与の未払いを恐れて逃げ出す中、マルタだけは「お嬢様をお一人にはできません」と言って、無給でも私の側に残ると言ってくれた。今の私がジュリアンの下で正気を保っていられるのは、間違いなく彼女のおかげだった。


「いつものことよ。私が彼に依存している限り、あの態度が変わることはないわ。……でも、それよりもマルタ。さっきの話だけど……」


私はハーブティーのカップを両手で包み込み、その温もりを確かめるようにしながら言った。


「街の様子、本当に悪化しているのね。ジュリアン様は一蹴していたけれど、私にはどうしても、あれがただの『民衆の戯言』には思えないの」


私の問いかけに、マルタの表情がにわかに曇った。彼女は一度、部屋の扉が完全に閉まっているかを確認し、さらに私に近づいて声を極限まで落とした。


「お嬢様。実は、私もそのことでお話がございます。……ジュリアン様には絶対に秘密にしていただけますか」


「ええ、もちろんよ。どうしたの?」


マルタの尋常ではない雰囲気に、私は背筋を正した。


「ここ数日、買い出しの際に街の様子を細かく観察しておりました。……事態はお嬢様が思われている以上に深刻です。すでに下町の平民たちの間では、武器の備蓄が始まっています。さらに、王都の兵士の中にも、平民出身の者たちが多く含まれており、彼らの何割かはすでに反乱軍側に内通しているという噂です」


「なんですって……!?」


私は絶句した。兵士までもが反乱の側に回っているのだとしたら、ジュリアンが言っていた「一瞬で鎮圧される」という前提そのものが崩れ去ることになる。


「おそらく、あと一ヶ月……いえ、早ければ数週間のうちに、この王都で大規模な暴動が起きます。それは単なるデモではなく、現体制を覆そうとする、本当の『革命』になるでしょう。そうなれば、怒り狂った民衆が真っ先に向かうのは、自分たちを搾取してきた貴族街です。クロイツァー子爵家も、間違いなく標的になります」


マルタの言葉は、冷酷な現実として私の胸に突き刺さった。

もし暴動が起きれば、この豪華な屋敷は即座に暴徒に焼き払われ、貴族たちは捕らえられるか、あるいは……。想像するだけで、全身に鳥肌が立つ。


「そんな……。じゃあ、私はどうすればいいの? ジュリアン様に従って、ここで反乱に巻き込まれるのを待つしかないというの……? でも、私には行くあても、お金も……」


私は頭を抱え、ガタガタと震え出した。

貴族としての生活を失う恐怖からジュリアンにしがみついていたが、その結果、命の危機に晒されることになるなんて。私のしてきた我慢は、すべて無意味だったのだろうか。


そんな私に、マルタはそっと近づき、私の震える手を自らの温かい手で包み込んだ。


「お嬢様、落ち着いてお聞きください。お嬢様には、まだ行くべき場所がございます。いえ、今こそ、そこへ避難すべきなのです」


「行くべき場所……?」


私が涙目のまま問い返すと、マルタは強く、はっきりとうなずいた。


「はい。お嬢様の亡き御母堂様――エレーヌ様の故郷である、東の辺境『リヴィエール領』でございます」


「お母様の故郷……」


その名を聞いた瞬間、私の脳裏に古い記憶が蘇った。

私がまだ小さかった頃、優しかった母がよく話してくれた、緑豊かで美しい土地。しかし、母が亡くなってからは、その名前を耳にすることはほとんどなかった。なぜなら、ジュリアンがいつもその土地を蔑んでいたからだ。

『あんな東の最果ての泥臭い田舎、野蛮人の巣窟だ』と。

『お前の母親はそんな辺境の出身だから、お前もどこか品が足りないのだ』

ジュリアンの言葉を鵜呑みにしていた私は、リヴィエール領に対して、貧しく、荒れ果てた、恐ろしい場所というイメージを勝手に抱いていた。


「あそこは……ジュリアン様が言っていたわ。野蛮で、まともな生活もできないような田舎だって。そんな場所に行って、私は生きていけるの?」


私の不安に満ちた言葉に、マルタは小さく首を振った。その表情には、ジュリアンに対する明確な侮蔑と、亡き母への強い敬愛が入り混じっていた。


「お嬢様、それはジュリアン様が意図的にお嬢様を怯えさせ、支配するために植え付けた嘘にすぎません。あの方は、お嬢様がご自身の意思で自立されるのを何よりも恐れているのですから」


「嘘……?」


「はい。リヴィエール領は確かに王都のような華やかさはございませんが、豊かな自然に恵まれ、人々は自給自足に近い生活を送りながらも、非常に穏やかで活気のある土地です。そして何より……御母堂さまであるエレーヌ様は、あの大地で、民衆から絶大な支持と尊敬を集めていらっしゃったお方なのです」


マルタの言葉は、私のこれまでの常識を根底から覆すものだった。


「母様が……民衆から支持されていた?」


「ええ。エレーヌ様は貴族としての特権に胡坐をかくことなく、領民と同じ目線に立ち、貧しい者への救済や、新たな農法の導入に尽力されました。リヴィエールの人々にとって、エレーヌ様は今でも『東の聖女』として語り継がれるほどの恩人なのです。そのお嬢様であるエルリア様が頼ってこられたと知れば、領民たちは必ず、お嬢様を快く迎え入れてくださる筈です」


マルタの瞳は真っ直ぐに私を射抜いていた。そこには一切の迷いも、欺瞞もなかった。


「王都での生活は、間もなく終わりを迎えます。ここに残れば、ジュリアン様と運命を共にするか、暴動の渦に巻き込まれるかの二択です。お嬢様、今こそこの鳥籠を飛び出す時です。私が、お嬢様を必ずリヴィエールまでお連れいたします。……私を信じて、一緒に来ていただけますか?」


「マルタ……」


私は息を呑んだ。

胸の奥で、何かが激しく音を立てて崩れ落ちていくのを感じた。それは、三年もの間私を縛り付けていた「貴族としての生活を失えば生きていけない」という、根拠のない恐怖の壁だった。


ジュリアンはいつも私に『お前には価値がない』と言った。

けれどマルタは言ってくれた。母の血を引く私を、待ってくれている人々がいると。


確かに辺境での生活は、これまでの贅沢な暮らしとは、きっと違うものになるだろう。きらびやかなドレスも、執事がかしこまる夜会も、高級なブランデーもない。

けれど、そこにはジュリアンの冷酷な嘲笑はない。毎朝、彼の機嫌を伺いながら怯えて目覚める必要もない。なにより反乱に怯えて屋敷に閉じこもる心配もない。

自分の足で立ち、自分の責任で生きる。それは、私がとうの昔に諦めていた「自由」そのものでは、ないだろうか。


窓の外に視線を向けると、夜の帳が下りた王都の街並みが広がっていた。遠くから、犬の遠吠えのような、地鳴りのような、不穏なざわめきがかすかに聞こえてくる。

王都の終焉は、きっとすぐそこまで迫っている。


「……分かったわ、マルタ」


私はカップをテーブルに置き、しっかりと前を向いた。私の声は自分でも驚くほど静かで、しかし力強かった。


「私、ここを出るわ。ジュリアン様のもとを離れて、お母様の故郷へ行く」


マルタの顔に、パッと明るい笑みが浮かんだ。彼女は深く、深く一礼した。


「かしこまりました、エルリアお嬢様。そのご決断を、御母堂様もきっと天国でお喜びのことでしょう」


「でも、どうやって逃げ出すの? ジュリアン様の監視の目は厳しいわ。急に荷物をまとめて出ていけば、すぐに追っ手が差し向けられる」


「ご安心ください。暴動の予兆のせいで、現在、王都の警備は外側へ向けて手薄になっています。ジュリアン様が夜会や会合で連日屋敷を空けるこの数日間が最大の好機です。必要な身の回りの品と、いくばくかの換金可能な宝飾品だけを厳選し、深夜に紛れて出発しましょう。すでに信頼できる馬車の手配は進めております」


マルタの用意周到さに、私は感嘆するしかなかった。彼女は私が決断するずっと前から、私の命を救うための準備を進めていてくれたのだ。


「ありがとう、マルタ。本当に、あなたがいなければ私は……」


「お嬢様、お礼を言うのは無事にリヴィエールに着いてからにいたしましょう。……さあ、時間は限られています。まずはジュリアン様に怪しまれないよう、普段通りの生活を送りつつ、静かに準備を進めましょう」


「ええ、そうね」


私は小さく笑った。三年ぶりに、心からの笑顔が作れたような気がした。


その夜、私はベッドに入っても、不思議と恐怖は感じなかった。

窓の外から聞こえる不穏な足音は、私にとって滅びのカウントダウンではなく、新しい世界への扉を叩く音のように思えた。


横暴な婚約者の影から逃れ、亡き母の故郷へ。

そこにはどんな生活が待っているのだろう。どんな人々が出迎えてくれるのだろう。

未知の世界への不安はあったが、それ以上に、自分の人生を自分の手で取り戻すという高揚感が、私の胸を熱く満たしていた。


鳥籠の格子は、すでにひび割れている。

私はもう、あの冷酷な言葉に傷つく人形ではない。マルタと共に、私は新しい夜明けへ向かって羽ばたくのだ。

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