第二十三話 心天流
空を覆っていた雲が薄れ、雲間から月が覗いていた。
穏やかな波が月の光を反射し、キラキラと光る海原。
海面には紫色の薄霧が漂っていた。
テレルの港から聞こえて来ていた喧騒は鳴りを潜め、静かな夜が広がっていた。
時刻は深夜。
古来日本の時間で言うと、草木も眠る丑三つ時。
丑寅の時刻とも言われる、怪異の時間。
海難事故の後処理をしていた人々は、朝早くからの仕事もあるため、既に港からは姿を消していた。
作業時には煌々と灯っていた光源は消え去り、停留された船は黒い影となって波に揺れている。
ぱしゃり。
波が岸壁や桟橋を叩く音が辺りに響く。
ぱしゃり、ぱしゃり。
一定のリズムで寄せては返す波。
ペシャン。
波の音に紛れ、岸壁に波以外のものが叩きつけられるような音が鳴る。
ペシャン。
ペタリ。
岸壁の縁、青白い人間の手が掛けられていた。
海難事故にあった船員が、自力で戻って来たのだろうか。
運が悪い事に、今は港に人影は無い。
事故から随分と時間が経っている事を考えると、海面から自力で岸壁を登る体力は無いのではないか。
ズルリ。
しかしその人物は何の苦労もなく海面から這い上がる。
所々破けた服からは血が滲んだ跡が伺える。
脇腹は切り裂かれたようで腸をはみ出させ、太もも辺りまで垂れ下げていた。
脛は骨が露出しており、眼窩に収まった目には光が無い。
フラフラと足取りが覚束ないその人物は、どう見ても生きてはいなかった。
ペシャリ。
ペシャリ。
ズルズル、ペタン。
這い上がって来たのは一体では無く、二体、三体と増えていく。
時折、灯台の灯りに照らされるそれらの存在を、まだ町の住民達は知らないでいる。
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宿屋のベッドの上、元は不意に目を覚まし、上半身を起こす。
港の方角を暫く見つめた後、溜息を吐き出した。
「予感的中、か」
ぽそりと小さく呟かれた言葉は、誰に届く事もなく消えていく。
元はガリガリと右手で頭を掻いてから、ベッドから降り立つ。
靴を履き、学生服に袖を通すと、少し悩んで窓を開けた。
元と柏木が与えられた部屋は二階。
深夜の時間帯に、宿屋の正面玄関から出掛けることは躊躇われた。
二階程度の高さならば特に問題なく飛び降りられるし、梁を伝って登る事も出来る。
窓に足を掛け、飛び降りようとし、ふと思う。
(俺が行く必要…あるのか?)
今起こっている現象は、元にとって馴染み深いと言っていい現象だ。
しかし、この世界での現象と日本にいた時との差異は分からない。
全く別の現象であったり、専門に対処する者が居るかもしれない。
そこまで考え、頭を振る。
(気付いたんだから行けばいいさ。誰かが対処してるようなら、帰って来ればいい)
元はそう考えをまとめると、窓から外の通りへと飛び降りる。
膝を曲げ着地の衝撃を逃し、そのまま走り出す。
港までは直線、迷う事もない。
暗闇が覆う視界の中、灯台の光が港を照らした。
ゆらゆらと揺れる人影が見える。
酔っ払いならばいいのだが、確認できた人影は服装がボロボロだった。
酔っ払いの喧嘩の結果、と言う訳では無さそうだ。
「魔障ってのは分からないが、歩く死体か。こんなに早く淀むのか、この世界は」
腸を引きずり歩く死体達は、近づいて来た元に気付いたようで、フラフラとしながらも元に体を向ける。
半開きになった口からは「あぁ… 」「うぅ…あ… 」等と、言葉にならない声を発している。
「出来立て、って表現は申し訳ないが、時間の経ってない事はありがたい。さっさと…」
『カ……タ…』
「ん? 」
元が行動を起こそうとした時、歩く死体から〝声″が聞こえた。
それはこの世界の言葉でも、日本語でもない。
心の声とでも言う、感情の形。
『カエリ…タイ』
確かに、元の目の前に近づいてくる〝彼″から〝声″が聞こえる。
帰りたい、と。
「…日本と違うな、やっぱり。穢れ落ちしてる割に魂の形はまともだ。時間が経過していないから、か?攻撃してくる気配もないし」
複数の死体が歩いて来る光景を見ながら、元は冷静に観察している。
このような異常事態に慣れているが如く。
「何にせよ、お前達は死んだんだ。この世界の神様も、あの世のことも知らないが、あるべき姿に還してやるよ」
そう言って元は一歩、後ろに下がる。
右脚を前に出しての半身に構え、右手の人差し指と中指を揃えて立てる。
スッと二本の指を死者達へと向ける。
「祓い給へ、浄め給へ…」
二本の指の先が淡く光る。
蒼白い光は静謐さを感じさせた。
「浄め祓いは苦手なんだ、痛くても勘弁してくれよな」
元はそう言い、目を細める。
「接続、直霊。状態:和御魂」
そう元が唱えると、指先の光が強くなる。
死者達は光から身を遠ざけようと、後ずさる。
物を映す事が無くなった目を光から守る為なのか、生前の記憶にある様に、眩しい光を見た時の条件反射なのか。
両の手を掲げ光を遮ろうとする。
トンッ。
元が光を嫌がる死者の額に、二本の指を触れる。
指の離れた額には、指先と同じ蒼白い光が揺蕩っていた。
手前の死者を通り過ぎた元は、そのまま他の死者達の額を突いていく。
額を突かれた死者達は動きを止め、身動ぎ一つしない。
「この世界に転生があるのなら、次の生まで眠れ。転生なんて、俺は信じてないけどな」
哀れみの込もった視線を死者達に向け、二本指を縦一文字に切る。
「黄泉の旅路に迷う事なかれ。〝浄光葬送″」
元が祝言を呟くと、死者達の額にある光が弾け、霧散していく。
ドサリ、ドサリとその場に崩れ落ちた死者達は、二度と起き上がっては来なかった。
元は死者達を送る事が出来た事を確認し、嘆息した。
元の扱う術は武術ではない。
肉体的接触、或いは空間を使っての穢れ祓いを行なう秘術だ。
心天流と名付けられたこの秘術は、基を辿れば神降ろしに行き着く。
時代を経て後、今代に至るまでに様々な術を合わせた浄化の法。
一霊四魂を理念に、現代格闘術の体捌き迄をも取り入れたのが、今現在、元が扱う心天流であった。
現代格闘術を取り入れたのは元の祖父だった。
人型の穢れに対して有効である、と言っていたのだが、元としては疑っていた。
母から、元の生まれた時の祖父の様子を聞いていた為だ。
何にせよ、一段落付いた。
幸い、騒ぎにもなっておらず、人に見咎められても居なかった。
折り重なった死者達を見下ろし、さてどうするかと元は辺りを見回し、海面に漂う薄紫の霧を見付ける。
「…穢れ溜まり、か?あんなにはっきり見えるのは初めてだが…。これも魔法って奴の影響なのか? 」
穢れ溜まりとはその名の通り、穢れた気の溜まった状態を指す。
穢れた気、陰の気は死者に仮初めの命を、正常を異常へと変化させる。
健康な人の体調が急に悪くなったり、病状の悪化等が起こる。
そのままにしておけば周囲に悪影響を及ぼす。
元は穢れ溜まりを浄化しようと、海へと近づいて行く。
オオオオオォォォォォオォォォォォ………。
元が海へと近づくと、唸る様な声が聞こえて来た。
壁一枚を隔てた様な、不明瞭な声。
低く、籠って聞こえる声の出所は、海。
元は嫌な予感をひしひしと感じながら、穢れ溜まりへと視線を向ける。
ゴポリ…。
海面に大きな気泡が浮き上がって来た。
気泡が弾け、辺りに腐臭が漂う。
ゴポリ…ゴポリ…。
浮き上がる気泡が増えていき、あまりの腐臭に元は顔を顰めた。
「こっちの世界にも似た様なのはいるのか…。この腐臭、勘弁してくれ… 」
断続的な気泡は止まず、黒い影が見え始める。
ザバリッと音を立てて海面を割って巨体が姿を現わす。
港に立っている元が見上げるほどの大きさのそれは、灰色の塊。
身体全体から声を発している様に聞こえる。
オオオォォォォォオォォォォォォォ……。
発している様に、では無く、実際に身体全体が啼いていた。
ぶくぶくに膨れ上がり、皮膚の色は灰色。
所々裂けて飛び出している、黄色く濁った脂肪。
ぶらりと下がった内臓に、ポッカリと暗闇が鎮座する眼窩。
腹と言わず顔と言わず、開いている穴からピチピチと動き跳ねる魚が見える。
そんな水死体が何十と集まり、重なり、固まっている。
聞こえてくる啼き声は怨嗟の叫び。
生ある者への嫉妬の発露。
「海坊主…」
元は灰色の肉塊を睨み、そう言った。




