幕間 エルシーの慟哭
「どうしてです!!!」
エルシー・ヴォーンの声は、文化部のフロア全体に響いた。
夕刊の締切前、最も殺気立つ時刻である。誰もが手を止めた。
「どうして載せられないんですか!この原稿のどこが問題なんです!!」
「上の判断だ」
「上って誰です!!」
編集長は答えはなかった。
エルシーは原稿を掴んだ。指が白くなるほど強く。
「あの写し絵だけでは、氏が不貞を働いた証拠になりません!止め絵は一瞬を切り取っただけ、前後がなければ支えただけの可能性を否定できない!それに『ランタン報知』が載せた匿名証言、該当者だって存在しないんです!!全部確かめました!!!」
「わかっている。内容はよく書けている」
「なら──」
「よく書けているから載せられんのだ」
編集長は、そこで初めて顔を上げた。疲れた目だった。
「エルシー。この件を書けば我々はどこと喧嘩をすることになると思う」
「『ランタン報知』でしょう」
「違う。……あそこの後ろだ」
声が低くなった。
「今朝から昼にかけて社長のところに客が三組来た。文化面の広告主だ」
編集長は指を三本立てた。
「『来期の出稿を見直したい』『御社とは長い付き合いだが、そろそろ潮時かもしれない』……三社目に至っては契約書を持ってきた。解約の条項に丁寧に指を置いてな」
「……そんな」
「三社とも劇場興行に金を出している筋だ。三社合わせてうちの文化面の広告収入の半分を超える」
エルシーは言葉を失った。
脅しだ。
この記事を載せれば文化面を消すという強烈な脅しだ。
「相手が悪い」
編集長は吐き捨てるように言った。
「あの写し絵を最初に持ち込んだのが誰か、業界の人間なら見当はついている。ゴシップ紙の編集長とここ数年やたら親密な役者が一人いる。祝宴の席もあの男の息のかかった興行筋だ。おまけに社交界に顔が広い。……もう分かるだろう」
「……ヴィクトール」
名前を口にした瞬間編集長は目を逸らした。それが答えだった。
エルシーは唇を噛んだ。
編集長は何も言わないまま原稿を引き取って机の引き出しにしまった。破り捨てられなかった。この人の精一杯の抵抗が分かり──それと同時に自分の置かれている立場を知らされたようにも感じた。
「エルシー。悪いが、君は来週から資料室だ」
「な……!?」
「既に決まったことだ」
彼女は何も言えなかった。
握りしめた拳が、ぎり、と鳴った。爪が掌に食い込んで痛みが来てそれでも力が抜けなかった。
※※※
その夜、彼女は誰もいなくなった文化部で机の中身を片づけていた。
異動までに私物をまとめておけと言われていた。自分が就職してからの十年分である。取材帳、切り抜き、書きかけの原稿、劇場からもらった栞。抽斗をひっくり返すたびに、自分がこの席で何を書いてきたかが積み上がっていく。
いちばん奥のいちばん下の引き出しを開けた時だった。
薄い紙が一枚底に貼りついていた。
擦り切れた古い半券である。もう文字もほとんど掠れた子供の頃の切符だ。
あぁそうだ、お守りのつもりでずっとここに入れていたのだ。原稿に詰まった夜や劇評を酷評されて落ち込んだ日に引き出しを開けて眺めるためだけの一枚だった。
幼い頃、親に連れられて観た舞台。演目も筋ももう覚えていない。覚えているのは暗い客席と光の中に立っていた男の声だけだ。あの声が怖くて、面白くて、母の袖を握りしめたまま瞬きもできなかった。
あの日、人生は決まってしまった。
舞台に立つ才はなかったのでいちばん近くで観ていられる仕事を選んだ。
それなのに、その人が、今いなくなっている。生きているか死んでいるかもわからない。
「……何のために……私は……」
誰もいないフロアで彼女はそう呟いた。
半券を握った手が震えていた。




