幕間 ヴィクトールの祝杯
同じ夜。王都でいちばん高い場所にある店の一室では酒が惜しげもなく開けられていた。
名目はヴィクトール・ケストナーの来季のミレニア新作の主演内定を祝う会だった。集まったのは新聞社の人間が四人、興行主が三人、貴族の次男坊が二人。誰もが彼のグラスに酒を注ぎたがり誰もが彼の冗談に笑った。
「いやはやめでたい。あの看板が空いたおかげでようやく実力が正当に評価されたというわけだ」
ゴシップ紙の編集長がそう言うと座がどっと沸いた。ヴィクトールは片手を上げて鷹揚に受け流してみせた。
「そういう言い方はよせ。不幸な事故のようなものだ。……あの人には才があった。惜しい男を失った」
「えぇまさにまさに。惜しいことをしましたなぁ」
──惜しい男。ああ、実に惜しい男だった。
この半年で彼の周りの景色は完全に変わっていた。
ミレニアの看板には彼の名が掲げられている。批評家は彼を書き、貴族は彼を招き、若手は彼に頭を下げる。街を歩けば人が振り返る。かつてはそれが振り返られるのは自分ではなかった。
あの男が街を歩くと黄色い声を上げて人は振り返った。舞台から降りれば何ということもない、華やかさのかけらもない中年であるにも関わらずだ。
芸なら負けていない。少なくとも負けているとは思わなかった。声も、容姿も、人気も、こちらが上のはずだった。稽古の量だってあの男に劣った覚えはない。
だが、批評家は必ず最後にあの男の名を出した。「ケストナー氏の熱演も見事だがやはりヴァイス氏の……」。必ずだ。ただの一度の例外もなく、私は「やはり」の前に置かれる男だった。
グラスの酒を彼は一息に呷った。
あの男の何がそんなに良かったというのか。
夜会にも来ない。社交もしない。パトロンへの挨拶は最低限で済ませて稽古場へ帰ってしまう。人脈を作る努力もせず、世渡りというものを一切しない。
なのにみんなあの男が好きだった。
演出家も、裏方も、若手も、老いた劇場主も、そして客席も。何もしていないのに勝手に人が集まっているのだ。こちらが必死に夜会を渡り歩き、名刺を配り、記者に酒を奢って作り上げてきたものをあの男はただ舞台に立っているだけで手に入れていた。
ずるい、と思った。
「ケストナーさん。次の演目はもうお決まりで?」
興行主の一人が尋ねた。
ヴィクトールはふっと笑みを浮かべ答えた。
「『竜殺しの冬』をと言われている」
どよ……とざわめいた。あの男の当たり役である。三月続いた大入りのあの千秋楽。雪の代わりに灰を降らせたという王都じゅうが話題にしたあの晩の演目だ。
「それは……その、なんと言いますか」
「構わんさ」
ヴィクトールは笑った。
「あの人の代表作を私が引き受ける。供養のようなものだろう」
──違う。
供養などではない。あの男が三月降らせ続けた雪を私が降らせる。あの男が最後に灰に変えた幕切れを私がやる。同じ舞台に、同じ役で、私が立つ。そして客席は私に拍手をする。
あの男の残した最後の一つを、私が上書きしてやっと、私はあの男に勝つことができるのだ。
「しかし消息不明とはねえ」
誰かが言った。
「どこで何をしているんでしょうな。あれだけの人が」
「田舎で野垂れ死んでいるんじゃないか」
誰かが答えてまた笑いが起きた。
ヴィクトールは笑わなかった。その一瞬だけ彼の顔から表情が抜けた。
だがそれも一瞬だった。生きていようが死んでいようがもう舞台には戻れない事だけは事実だった。何もかもを、全部完膚なきまでに奪い尽くしてやったのだ。
「ケストナーさん?」
「……ああ、失敬。少し酔ったようだ」
彼はグラスを掲げ直した。
「乾杯といこう。……新しい季節に」
グラスが鳴った。
その夜、ヴィクトールは上機嫌のまま店の主人が驚くほど飲んだ。誰もが彼を今年いちばんの幸運な男だと言い、彼自身もそう思っていた。
今や王都の演劇界の中心は彼だった。
欲しかったものはすべて手に入っていた。
──ただ一つ、あの男の口から「負けた」と言わせることだけが永遠に叶わなくなったというだけで。




