コンラートの再生
「ねぇおじさん。こんどはぜんぶやって」
ミレイユがそう言い出したのは炎を見せた夜から幾日か経った頃だった。
「ぜんぶって?」
「えっとね~…おはなしのひとになるの。このまえおじさんちょこっとりゅうになってたでしょ。ああいうの。さいしょからさいごまでぜ~んぶ」
──一人芝居をやれ。この子はそう言っているのだ。
場所はミレイユが決めた。町はずれの古い集会小屋だ。
今は物置同然の埃っぽい建物で、ミレイユがこっそり忍び込んで遊び場にしているようだった。
ミレイユに連れられて中に入ると、そこには壊れた長椅子や古い祭りの道具所狭しと押し込まれていた──だがその奥、一段高くなった床板を見たとき私の足は止まった。
これは、舞台だ。
以前はこの小屋も旅の一座が演技をする舞台として使われていたのかもしれない。たとえ今はだれも覚えていないようなものだったとしてもここは舞台に違いなかった。
私はごくりとつばを飲み込み、一段上った。
正直に言えば私の心臓は嫌な音を立てていた。
振り向くと客席(であろう位置)にはミレイユが一人。連れてこられた山羊が二匹、戸口に繋がれて退屈そうに草を食んでいる。魔法灯もない。あるのは板壁の隙間から差し込む夕暮れの光だけだ。
私は埃っぽい舞台の中央に立ち息を深く吸った。
「……はじまり、はじまり」
──声が、出た。
喜びに震えそうになる声をなんとかねじ伏せ、私は演技に入った。
演目は竜退治の伝説を私なりに膨らませたものにした。臆病な靴屋の青年がひょんなことから竜退治の旅に出る、笑いあり涙ありの一幕物。私は靴屋になり、口うるさい母親になり、いばりくさった王様になり、道化の従者になり、そして最後には年老いた竜になった。
声色が次々と切り替わる。体が勝手に動く。今まで積み上げてきたものが埃っぽい床板の上に堰を切ったように溢れ出した。
竜の吐息の場面では炎を舞わせた。橙の焔が薄暗い小屋の中を生き物のように泳いだ。ミレイユが悲鳴とも歓声ともつかない声を上げ、山羊が、めえ、と鳴いた。
そして終幕。
年老いた竜が靴屋の青年に看取られて静かに眠る場面。私は床板に膝をつき竜の最期の声で言った。
「……ながい、ながい、たびだった。だが、わるくない、たびだった」
最後の炎が天井へゆっくりと昇って消えた。
静寂。
顔を上げるとぎょっとしてしまった。そこではミレイユが泣いていた。
壊れた長椅子の上で両の拳をぎゅっと握って、ぼろぼろと大粒の涙をこぼしていた。そして泣きながら笑っていた。
「おじさん……おじさん、すごい……すごいねえ……!」
幼い子供が使える語彙の全てだった。すごい。それだけだった。
だが断言できる。この夕暮れの物置小屋で洟を啜りながら絞り出された「すごいねえ」に勝る劇評は無いという事を。
私は舞台の上で──そう、舞台の上で深々と一礼した。
観客一人と山羊二匹に向かって。生涯で最も小さな客席に向かって、生涯で最も深いカーテンコールの礼を。
その時だった。戸口のほうからぱち、ぱち、とぎこちない拍手が聞こえたのは。
振り向くと戸の陰に人影がいくつも詰まっていた。
マルタが腕を組んで立っていた。目が赤かった。その後ろにヘンドリックが仏頂面のままそれでも節くれだった手を叩いていた。ニコが柱の陰に半分隠れて食い入るように舞台を見ていた。他にも見知った町の顔がいくつも。
「……いつから、そこに」
「靴屋が旅に出るあたりからだね」
「ほぼ全部じゃないか」
マルタが鼻声で言った。
「ミレイユがここんとこ毎日『おじさんのおはなしはすごい』って騒ぐもんだから、様子を見に来たんだけどさぁ……」
彼女は腕組みをしたまま私をじっと見た。
「あんたいったい、何者だい」
私は答える代わりに曖昧に笑って頭を掻いた。
その夜はそれで済んだ。マルタもそれ以上は聞かなかった。訳ありの客に事情を聞かないのが宿屋の流儀だから、と。
──だが、流儀にも限界というものは来る。
それは思っていたよりずっと早く来た。
※※※
その日、マルタの宿にはくしゃくしゃの古新聞が一枚置かれていた。
行商人が荷物の緩衝材に使っていたもので、王都ではとうに旬の過ぎたゴシップ紙だった。
ミレイユは古新聞を眺めるのが好きだった。彼女が読むには難しすぎる内容だったが、問題はなかった。彼女の目的は写し絵だったからだ。見たこともない建物。着飾った人たち。馬車。彼女にとってそれは絵本の次に面白いものだった。
その日も私が夕飯を食べている隣で彼女は紙面を広げてぺらぺらとめくっていた。
そしてめくる手が止まった。
「……あれ?」
小さな首が傾いだ。紙面と私の顔を、二度、三度と往復する。
私は匙を口へ運びかけたままその動きを見ていた。
──嫌な予感がした。
「おじさん」
ミレイユは実に無邪気な声で言った。
「このひと、おじさんに……そっくり?」
紙面が卓の上に押しやられた。
一面。鮮明な写し絵。しなだれかかる夫人と、その背に手を添えた男。「清廉なる国民的俳優コンラート・ヴァイス、人妻と密会」の見出し。
私の顔がそこにあった。
店の喧噪が潮が引くように静まっていった。
店中のすべての目が紙面と私の顔を往復していた。マルタが。仕事帰りのヘンドリックが。灯りの点検に寄っていたニコが。
「……?」
ミレイユがきょとんとした顔で周囲を見回した。
彼女にはまだ見出しの意味は分からなかった。だが、大人たちが黙り込んだことと、その黙り方がいつもと違うこと、それだけは分かってしまったようだった。
──逃げ場はなかった。
いや。逃げようとも思わなかった。不思議なほど静かな気持ちだった。いつか来る日が来ただけだ。
私が口を開くより先に、店のいちばん奥のいつもの席からしわがれた声がした。
「……その男は、コンラート・ヴァイス」
ジェラルドだった。
いつも酒場の隅で管を巻いている飲んだくれの爺さん。
その爺さんがこの時ばかりは酔いの抜けた恐ろしくはっきりした声で言った。
「王都のテアトル・ミレニアが幾年もかけて磨き上げた当代一の名優だ。わしは昔王都で座付き作家をやっとったからな。この男の噂はよ~く聞いていたよ」
店がしん、となった。
誰もジェラルドの「王都で作家をやっていた」という与太話を信じたことがなかった。だがこの日、この爺さんの声には与太を許さない何かがあった。
「さっか……?」
意味はよくわからないまま、音をそのまま真似をしたミレイユの声にジェラルドは頷き、そして卓の上の紙面を節くれだった指でとん、と叩いた。
「この記事は嘘だ」
彼は語った。
私が王都でどういう役者だったか。どれほど愚直に舞台だけを積み上げてきた男か。そして──この記事の後、私に何が起きたか。書き足されていった作り話。御前公演。声を失ったこと。すべてをまるで見てきたかのように。
「……どうしてそこまで」
私が思わず口を挟むとジェラルドはふん、と鼻を鳴らした。
「作家をやめても、活字を読む病だけは治らんのでな。都の新聞はできる限り取り寄せておったんじゃよ。……あんたがこの町に降りた日から、わしには全部わかっとった。あんたが誰で、何があって、なぜ窓の外ばかり見とったのか」
「……なぜ黙っていたんだい」
「やめた理由なんぞ、わざわざほじくりかえして口に出すもんじゃなかろう? 人には人の事情がある」
ジェラルドは杯の底の酒をぐいと呑んだ。
「……つまりなにかい」
地の底から響くような女将の声は低かった。
「うちの客は、なんにも悪いことをしてないのに嘘っぱちの記事で仕事を失くして声まで失くしてこんな山奥まで流れてきたって……そういうことかい」
「そういうことだ」とジェラルド。
「その嘘を仕組んだ奴は今ものうのうと都で舞台に立ってるって……そういうことかい」
「そういうことだ」
マルタはエプロンで手を拭いた。ゆっくりと。それから店中に響く声で言った。
「──ふざけるんじゃないよ!!」
卓の上の杯が跳ねた。
「あたしはねえ、この人がどんな顔で窓の外を見てたか知ってるんだ!どんな顔で飯を残してどんな顔でため息をついてたか!訳ありだろうと思って何にも聞かずにいたけどねそういうことなら話は別だ!うちの客をこんな目に遭わせた奴をあたしが許すと思うのかい!!」
「マ……マルタさん落ち着いて──」
「これが落ち着いていられるかい!!」
取りつく島もなかった。
「……何年だ」
「え?」
ヘンドリックがのそりと口を開いたのはその時だ。
「あんたが、その舞台にかけた年数だ」
私は少し考えて、答えた。
「……まあ人生の大半だな」
「人生かけて積んだ仕事を嘘っぱちで壊されたのか」
彼は私の手を見ていた。血豆を潰した、この手を。
「作るのに一生。壊すのに一瞬……ふざけるな」
短くそれだけ言った。だがその二言にマルタの怒声と同じだけの熱が詰まっていた。
私は呆然と彼らを見ていた。
怒ってくれている。
私のために──いや、私以上だ。この町に来る前から私自身がとうに手放した怒りを、この人たちはたった今拾い上げて燃やしてくれている。
──だがいけない。
私は重くなりすぎた空気をどうにかするべく、軽い調子で答えようとした。
「皆、ありがたいけど、これはもう済んだことなんだ。相手は都の紙面……そもそもこの記事で私を陥れた奴が誰なのかもわからないんだ。こんな山奥から何ができるわけでも」
「泣き寝入りする男ならそれでもいい」
遮ったのはまたしてもジェラルドだった。
ジェラルドは杯を置き私をまっすぐに見た。酔っ払いの濁った目ではなかった。
「あんたが全部呑み込んでこの町で静かに枯れたいというなら、わしらは黙って見送ってやる。それも一つの幕の下ろし方だ。……だがな、コンラート・ヴァイス」
彼は集会小屋のほうを顎で指した。
「わしは見たぞ。あの物置小屋の舞台で、山羊二匹と小娘一人を相手の芝居を。あれが枯れたい男のする芝居か?」
私は言葉に詰まった。
「あんたの声は戻っとる。あんたの芝居は死んどらん。死んどらんどころか──わしは、あの晩数十年ぶりに思っちまったんだ」
ジェラルドの声が微かに震えた。
「この役者のために、もう一本だけ書きたい、と」
毎日19時更新予定です。




