ミレイユのお願い
鍛冶屋のヘンドリックにも引き合わされたのはこの頃だった。
彼は町の農具から魔道機械まで修理する職人だった。無口で偏屈ないかにも職人です!という風体の男はどこからどうみても都会から来た軟弱者にしか見えない私をあからさまに見下していた。
ミレイユからの依頼に渋々答えたようで、私はただ一言「そこの踏鞴を踏め」とだけ言われた。
私は言われたとおりに踏鞴を踏んだ。踏鞴を踏むこと自体は単純だったが何しろ際限がない。炉の火を落とせないので終わりがないのだ。風魔法の術式を刻めばいいのではと言ったが、魔法だと仕上がりに差が出るのだという。
正直本当にそんな違いなんてあるのかとは思ったが、私は専門家でも職人でもなかったので言われるがままに踏鞴を踏み続けた。(その日は膝が笑い出し、足の裏の感覚がなくなった)
別の日には「炭」と顎で示されたので、ぎっしり炭の詰まった籠を運んだ。
「水」
桶を運んだ。
「銅」
棒の形状に整えられた素材の束を抱えて運んだ。
私は黙って運んだ。体を使うことなら慣れている。若い頃は大道具を担いで走り回ったし、鎧を着込んで一刻半も動き回る役もやった。
それに何より──ここで音を上げたら、ミレイユに「へたっぴ」と笑われる。
そう、私は負けず嫌いの意地っ張りなのだ。
彼の仕事を手伝って数日後のある日、私が素材の束を置いた際に彼は私の手を取り(いきなりだったので驚いた)じっと眺めた。
血豆だらけの無様な掌である。
「……都会もんにしてはやるな」
それだけ言って彼は炉に向き直った。
それがこの偏屈な男の精一杯の褒め言葉なのだと、私は後で知った。
※※※
そんな風に山の奥の町で、穏やかな生活を送っているある日の事。
山羊の世話を終え、小屋の前の切り株に二人並んで腰かけていた時だ。ミレイユはその日採れた卵を大事そうに膝に抱えてふと言った。
「おじさんのこえっていいね」
「……声?」
「うん。おじさんのこえ、すき。ひくくてあったかい。ねえねえ、なにかおはなししてよ」
忘れていたものを無理やり揺り起こされた気分だった。いや、ミレイユにはただ単純に思ったことを口に出しただけだろう。だがそれは私にとってはクリティカルな話題だった。
「おはなし……か」
「うん、なんでもいいよ」
私はこの子のお願いを聞いてあげたかった、喜ばせてあげたかった。だって毎日私を引きずり回し、私に腹を減らすことを、飯を旨いと思うことを思い出させてくれたこの小さな嵐に私は大いに感謝しているのだから。
──できるだろう、コンラート。お礼として短い物語の一つも語ってやれ。お前は舞台で何百もの物語を生きてきたじゃないか。
覚悟を決め私は息を吸った。物語の第一声を口にしようとした。
その瞬間、喉が締まった。
あの夜と同じだった。空気だけがひゅ、と鳴った。声にならない。
私は口を開けたまま固まった。
ミレイユがきょとんとして私を見上げている。その澄んだ、なんの疑いもない目が耐えがたかった。
今、私の前にいるのはただ純粋に私の話を聞きたいだけの小さな子供なのに。その子に私は何もしてやれない事実が、悲しくて、情けなかった。
──役者だった、と言った。もうやめた仕事だ、と。
──やめたのではない。奪われたのだ。
「……ごめん」
やっと出たのはその一言だった。それは日常の声だった。「おはなし」ではないただの詫びの言葉。それだけは出た。
「ごめんな。……おじさんはお話が……下手なんだ」
嘘だった。生涯でいちばん、苦い思いのする、たちの悪い嘘だった。
ミレイユはしばらく私を見ていた。ただ少し首をかしげて、それからこう言った。
「へたでもいいよ」
「……え?」
「へたでもきいてあげる。だっておじさんのこえすきだもん」
私は返す言葉を失った。
※※※
次の日、ミレイユは一冊の本を抱えてやってきた。
「これよんで」
ミレイユは私の膝にその本を置いた。古い擦り切れた絵本だった。彼女が宝物のように両手で抱えている姿は宿泊中に何度か見た事があった。ミレイユの母親──マルタの娘は早くに亡くなっている。この絵本はその母の形見なのだとマルタが言っていたのを思い出した。
「これって……」
「ママがよんでくれてた。じがいっぱいで、あたしまだよめないとこあるから」
──読むだけならば、できるのではないか?
演じるのでも語るのでもない。ただ書かれた文字を声に出して読む。それだけ、それだけならできるかもしれない。
私は絵本を開いた。
色あせた挿絵。旅をする一匹の子狐の物語だった。私は一呼吸置き、最初の一行に目を落とした。
「……『むかし、むかし。きたのもりに、いっぴきの、こぎつねが、すんでいました』」
声が出た。
詰まらなかった。喉は締まらなかった。それは朗々と響く「舞台の声」ではなく、ただ隣に座った子供に文字を届けるだけのささやかな声だった。
だが──出た。
私は続けた。
「『こぎつねは、かあさんぎつねが、だいすきでした。けれど、あるひ、かあさんぎつねは……』」
ミレイユが私の腕にこてんと頭を預けてきた。
物語に聞き入っている。
山羊が二匹、柵の向こうからのんびりとこちらを見ていた。観客は少女が一人と山羊が二匹。
私は満場の劇場で声を響かせてきた。何千の観客をその声で泣かせ、笑わせてきた。だが今、この夕暮れの、たった三人(一人と二匹?)の観客の前で絵本の一行を読んでいるこの時間のこの尊さは何だろう。
胸の奥がじんわりと熱かった。
※※※
その日から読み聞かせは毎日の日課になった。
山羊の世話のあと、切り株に並んで一日一話。子狐の絵本はすぐに読み終えてしまったので、マルタに子供向けの本を行商人に持ってきてもらえるよう頼んだ。森の中のかくれんぼのお話、昔々の魔女のお話、ねずみの引っ越しのお話など、様々な絵本を取り寄せ、そして読んでいった。
とはいえ、ホルンベルクは山の奥の田舎の村。届くのに時間もかかるし、持ってこれる量にも限界があった。
ならばと私は記憶の中の物語を掘り起こすようになった。
幼いころ教会で読んだ本、舞台で演じた芝居の筋をミレイユにもわかるようかみ砕いて語った。
語るうちに私の声は少しずつ変わっていった。
最初はただ文字を読むだけの平らな声だったのだが、いつしか登場人物ごとに声色がついた。王様は太く、姫は高く、道化はおどけて。臆病な子狐は震え、勇敢な騎士は張った。手も動くようになった。剣を振る手つき、涙を拭う仕草。
それが「演技」だと私はしばらく気づかなかった。
ある夜のことだった。
その日は竜の出てくる物語を語っていた。
私が子供の頃に聞いた古い竜退治の伝説だ。山奥の洞窟に棲む年老いた竜。その竜が最期に火を吐く場面にさしかかった時。
私は──ごく自然に掌に魔法陣を構築していた。
考えるより先に体が動いていた。舞台で竜の火を表現する時のあの手つき。それはもう私の一部だったのだから。
掌に、ぽっ、と小さな炎が灯った。
橙色の揺らめく焔。それは竜の吐息のようにゆらりと宙に舞い上がって、闇に淡い光を投げた。
「──!」
ミレイユの目がまん丸になった。膝の上で両手を握りしめて。
「おじさん……いま……!」
しまった、子供を驚かせてしまったか。この町にこんな魔法を使う者はいない。私の都会仕込みの演出魔法はこの子には恐ろしく映ったかもしれない。
だがミレイユは恐れていなかった。
その目は驚きにまん丸に見開かれ──夜空の星を二つそのまま瞳に嵌め込んだようにきらきらと輝いていた。
「もういっかい! おじさんもういっかい!」
その声に私は笑った。久しぶりに、腹の底から大きな声で笑った。
「いいよ!何度でも見せてあげよう!」
もう一度、掌に炎が灯る。今度は少し大きく。竜が大きく息を吸い込んで夜空へ焔を吐く──そんなふうに私は手を動かした。橙の光が闇に尾を引いて舞った。
ミレイユが歓声を上げた。山羊が驚いて、めえ、と鳴いた。
その小さな炎の灯りの中で私は思い出していた。この炎を。私の芝居に寄り添ってきた、この魔法を。あの空っぽの稽古場で所在なげに揺れて消えた、ちっぽけな火。それが今、少女の瞳を星に変えその頬を橙色に染めていた。




