ホルンベルクでの出会い
ホルンベルクでの最初の十日ほどを、私はほとんど覚えていない。
覚えていないというのは正確ではないな。何もしなかったから何も起きなかった、というのが正しい。
町にたった一軒の宿屋兼酒場に部屋を借りた。女将はマルタといって、樽のような体とそれに見合った声の持ち主だった。私の顔を見ても何も言わなかった。この山奥の町では俳優「コンラート・ヴァイス」のことは知られていなかったようだ。
私があまりにも打ちひしがれている様子だったのだろう。流れ着いた素性の知れない中年男に彼女は宿帳の名前すら求めなかった。
「訳ありの客に事情を聞かないのが、宿屋の流儀さ」
それだけ言って二階の隅の部屋の鍵を寄越した。さすがに申し訳なさを感じ、宿代+αを前払いで差し出した。この宿は一泊二食付きで八ゼルダ。破格の安さだった。
部屋には寝台と椅子と小さな窓があり、私は主にその窓の前で時間を潰した。
窓の外には雄大な山があった。朝、山肌に霧が這い、昼、日が回り、夕、稜線が茜に燃えて、夜、すべてが闇に沈む。それをただただ眺めた。飯はマルタが運んでくれたが半分も食べられなかった。腹が全く減らないのだ。
腹が減るというのは、明日を生きるつもりのある人間の体がすることだとこの歳になって初めて知った。
私は明日を生きるつもりがあまりなかった。声のことはもう試さなかった。正直もうどうでもよかったのだ。役者でない私が声を出して、それが何になるというのだ。
頭の片隅で、このまま枯れていくのだろうなと感じた。
水をやらない鉢植えが少しずつ葉を落としてやがて土に還るように、誰に看取られることもなく静かに。それはそう悪い終わり方ではないように思えたから。だって私は十分舞台の上で生きたのだ。幕が下りたのならば役者は舞台を去る。ただ、それだけのことだ。
──あの朝、部屋の扉が開かれるまではそう思っていたのだ。
※※※
朝と言っても、まだ山の霧も晴れきらぬ時刻、私は窓辺の椅子に座り何をするでもなく外をじっと眺めていた。
そんな時、廊下を小さな足音が猛烈な速さで近づいてきて、扉がばんと開かれた。
「みつけた!」
仁王立ちの小さな影。六つ…いや、五つぐらいだろうか。新しくはないが清潔そうな麻の服にぴょんぴょんと跳ねた癖毛。腰に手を当てて私を真正面から睨みつけていた。
(あぁ、宿の子だったっけ)
宿の女将のマルタは自分の孫だと言っていたような覚えがあった。
「ねぇおじさん、まいにちまいにちまどのそとばーっかりみてるでしょ」
「……見てたかな?」
「みてる。ばあばもいってたもん。『あのおきゃくは、いちんちじゅう、まどのそとみて、ためいきついてる』って」
(……事情は聴かないんじゃなかったのか)
何も聞かないということは、見ていないことと同義ではなかったようだ。
「ためいきばっかりついてると、しあわせにげていくんだよ。しってた?」
「それは初めて聞いた」
適当に返事をして彼女の言葉を交わそうかと思っていることを見破られたのだろうか、彼女はその返事に全く納得していませんという顔をしつつ、びしりと私に向けて言った。
「はたらかざるもの、くうべからず!」
私は思わず瞬きした。小さな体から出てくる語彙とは思えなかったのだ。
「……なんだって?」
「はたらかざるもの、くうべからず、だよ!ばあばがいつもいってるはたらかないひとは、ごはんたべちゃだめなの! おじさん、はたらいてないでしょ! なのにごはんたべてるでしょ! ずるい!」
むちゃくちゃな理屈だ。私は宿代を払って、飯代も払っている。何にもずるをしていないぞ……と反論することは造作もなかったがしなかった。
実際私は窓の外を見て、飯を残して、ため息をついて。それは確かに「働いている」とは言えないような気がしたからだ。
「……確かに、君の言う通りかも」
私が呟くと少女は我が意を得たりとばかりに大きく頷いた。
「でしょ! だからおじさんもおしごとするの! いっしょに!」
「仕事と言われてもなぁ……俺に何ができるか……」
「やぎ!」
「やぎ?」
「やぎのおせわ! きょうはおじさんもやるの! ほら、はやく!」
そして私の腕を小さな両手でぐいぐい引っ張り始めた。驚くべき力…いや、力ではない。有無を言わせぬ勢いだった。
私は特に抗わなかった。
自分でも意外だった。ここに来てからというもの、私はマルタの気遣いもゆるやかに拒んできた。言外に放っておいてくれ、と訴えていたような気がする。なのにこの小さな嵐だけは拒めなかった…と言うよりも拒む隙を与えられなかったのが正確だろう。大人は訳ありの客にわざわざ深くは踏み込まない。(経験上、面倒くさいことに巻き込まれることが多いからだ)だが子供と言うものは遠慮がない。遠慮なく、容赦なく人のスペースに土足で踏み込んでくる。
──そして、時には土足で踏み込まれることでしか開かない扉というものがあるのだ。
私は両手を顔の横まで上げつつ椅子から立ち上がった。
「……わかった。わかったよ、降参だ。山羊とやらに会いに行こう」
「こうさんってなに?」
「君の勝ち、という意味だよ。……ねぇお嬢さん、お名前は?」
少女はにっと笑った。
「ミレイユ!」
可愛い笑顔の中で、前歯が一本抜けていた。
※※※
それからの日々はこれまでとはまるで違う速さで過ぎた。
山羊は二匹いた。町外れの小屋に繋がれた白と茶のぶちの二匹。ミレイユは彼らにそれぞれ「ゆき」と「くり」という名をつけていた。(安直だが的確な命名だ)
山羊の世話は思っていたより重労働だった。乾草を運び、水を替え、小屋を掃除し、乳を搾る。初日の搾乳は見事に失敗した。乳が出ないのではない。私の手の使い方が山羊の気に入らないらしく、白いほうの「ゆき」にしたたか蹴られた。ミレイユは腹を抱えて笑った。
「おじさんへたっぴ!」
「……役者に山羊の乳搾りを仕込む学校はなかったものでね」
「やくしゃ?ってなに?」
その問いに私は一瞬、手を止めた。
「……昔の仕事だよ。もうやめたけど」
「ふうん」
少女はそれ以上興味を示さなかった。
その事実が私の胸を奇妙に軽くした。
卵も集めた。畑の草も取った。ミレイユの「おしごと」は多岐にわたりそのどれもが子供の気まぐれな指揮のもとで進んだ。私は言われるがままに鶏を追い、土を掘り、水を運んだ。
体をめいっぱい動かし久しぶりに、腹が減ったという感覚が蘇ってきた。
ミレイユの「おしごと」から帰り、マルタの店で出される素朴な夕飯を私は初めて残さず食べた。麦のパンも野菜の煮込みも驚くほど旨かった。旨いと感じられることに驚いた。マルタがそれを見て何も言わずに私の皿におかわりをよそった。
そんな日が数日続いたある日の夕食時、マルタから声をかけられた。
「今日は何してきたんだい」
空になった皿を下げながら、マルタが言った。
「ええと、川で何か探しましたね。何を探していたのかは、うーん……説明はされたんですけど最後までちょっとよくわかりませんでしたね」
マルタが噴き出した。
「あの子のお守りは骨が折れるだろう」
「とんでもない。楽しいですよ」
女将は真顔になって、私の顔をまじまじと見た。
「あんた、笑うようになったねえ」
「……そうですか」
「そうさ。来た頃はひどい顔してたよ」
私は答えに詰まった。マルタはそれ以上何も聞かず皿を持って厨房へ引っ込んでいった。
その時、店の隅から嗄れた声が飛んできた。
「女将、酒だ。もう一杯」
「あんたは飲みすぎだよジェラルド爺さん」
カウンターの端の席に老人が一人。私がこの店で夕飯を食うようになってからこの席にこの老人がいなかったことは一度もない。
「あの人は?」
丁度いい機会だと、私が小声で尋ねた。マルタは肩をすくめた。
「町のお荷物さ。若い頃は王都にいたって話でね。なんだったかね、劇の……本を書いてたんだと」
──手が、止まった。
王都。芝居の本。
私は自分の顔から表情が抜け落ちるのが分かった。くそっ……長年舞台に立ってきた人間が、こんな場所でこんな下手な芝居をするとは。
「……本当ですか」
「さあねえ。酔っ払いの言うことだよ。何十年もずーっと同じ話を聞かされて誰も本気にはしてないけどねぇ」
言いながら、マルタは老人の卓に酒を置いた。老人はぐいと呷ると私のほうへぼんやりと顔を向けた。
目が、合った。
濁った目だった。焦点も合っていない。
「……おう。新入りか」
「ええ。世話になっています」
「そうか。この町は、いいぞ。何もなくていい」
それだけ言って、老人はまた杯に向き直った。
──何もなかった。
私の顔を見ても、この老人は何の反応も示さなかった。私は内心で深く息を吐いた。
ほっとしている自分に気づいて少しだけ嫌な気分になった。
※※※
ニコの仕事を手伝ったのも同じ頃だったと思う。
彼は町の魔法灯の保守と駅の魔導設備の点検を一人でやっている青年だった。無口で人と目を合わせるのが苦手らしく、私が挨拶をしても最初は会釈を返すだけだった。
その日はミレイユが「おじさんもてつだって」と言い出したので二人で灯りのガラスを磨いた。
町の辻に立つ古い柱の灯りである。ガラスの覆いを外し汚れを拭う。単純な作業だ。ミレイユは磨くというより水遊びに近かったが……まあ、子供というのはそういうものなんだろう。
磨き終えたガラスの内側を私は何気なく覗いた。
灯芯の台座に細かな魔法陣が刻んである。基礎的な発光の術式だ。だがその外周の連結がずいぶん古い組み方をしていた。
「……これはずいぶん昔の型だな」
思わず口に出していた。
「え」
ニコが顔を上げた。
「あぁいや、この外側の環だが二か所ほど繋ぎ直すと同じ魔力でもう少し明るくなると思うよ。持ちも良くなるは──」
「どこ、ですか」
食い気味に、青年が声を出した。
私は指で示した。若い頃、劇場の灯り師が卓の裏でやっていたのを何度も見たので(役者が覚えることではないが)覚えていたのだ。
ニコはしゃがみ込んで食い入るようにその二か所を見ていた。しばらくそうしてから顔を上げた。
「……あの。あなたは、こういうお仕事を、されていたんですか」
私は少し迷ってそれから答えた。
「……もう辞めたよ」
ニコはそれ以上聞かなかった。ただその日から、彼は私に会うと会釈ではなく声で挨拶をするようになった。




