コンラートの失墜
その日、楽屋口の空気がいつもと違った。
誰も私の目を見ず、守衛は挨拶の途中で口ごもり、若い女優は廊下の角で踵を返した。稽古場に向かう途中、新聞を握った演出家が廊下で待っていた。
「読んでほしくはないんだが……」
そういいながら差し出されたのは、王都でも知られた有力紙だった。
「読むよ、俺の話なんだろう」
一面。
しなだれかかった夫人を受け止める私の写し絵は鮮明だった。
「……支えただけだ」
そう呟いたが、あまりにも空虚な台詞であることは自分自身、十分わかった。魔道具の不備で動きのない静止画になっていると注釈がいれてあるが、おそらく意図的に前後を切り取られたのだろう。この部分だけでは私が無理やり夫人を引き寄せ、抱擁しているようにしか見えなかった。
状況はどんどん悪くなる一方だった。
翌日の紙面は「常習の疑い」と書いた。翌々日は「他にも複数の人妻」。三日目には匿名の「被害女性」の手記が載り、四日目には「さる大貴族の夫人にも」と書いた。一枚の写し絵を核にありもしない女性遍歴が連載小説のように書き足されていく。
読むたびに奇妙な心地がした。紙面の中の「コンラート・ヴァイス」は私の名前と顔をして私のまるで知らない人生を歩いていた。彼は何人もの女を弄び良心の呵責もなく笑っているような最低男だと、私は私の与り知らぬところで勝手に別人に書き換えられていった。
抗いようがなかった。
何を言っても声明は載らないし、載ったとしても内容は切り刻まれ「開き直り」という見出しをつけられる。
劇場の廊下から私の名札が消えたのは最初の記事から六日目のことだ。外したのはバジルだったと聞いた。廊下で若手にこう言っていたそうだ。
「いやあ私は以前から少々怪しいとは思っていたのですよ。ああいう清廉ぶった御仁ほど裏では……ねえ?」
不思議と腹は立たなかった。腹を立てる暇がなかった、というのが正確かもしれない。
出演予定だった舞台からは降ろされた。更に降板は連鎖した。春の新作が消え、地方公演が消え、朗読会の一つまでご丁寧に消えた。演出家は最後まで抗ってくれたし、スタッフは泣いてくれた。古い観客は劇場に手紙を書いてくれた。ありがたかった。ありがたかったが、劇場は客商売であり、客とは大衆で、大衆は紙面を読む。
そして紙面は私の味方ではなかった。
決定打は夫人の夫だった。 興行界の有力者たるその人は、記者たちを前に声を震わせた。
「妻は何も語りません。ただただ、泣くばかりです。あの晩から、ずっと」
傍らで黒い衣装の夫人が白いハンカチを目元に当てた。一言も発しないまま細い肩を震わせた。その涙が翌朝王都のすべての紙面に載った。
あの無言の涙は役者の目で見ずともわかる程度の芝居だった。だが世間はそれを芝居だと思わなかった。本物の涙だと信じてしまった。
そして私にはあれが芝居だと証明する術が何一つなかった。
※※※
最後に残った仕事が御前公演だった。前年度、王国内で選ばれた俳優が国王の前で建国の歴史を紡ぎあげる──芸術の国の行事としても重要な公演だ。
「舞台を控えるべきです」
稽古場で国の役人が深々と頭を下げた。
「これはヴァイスさんのためを思って申し上げている。あの客席には国の要人方が並ぶ。万一、公演が荒れれば……」
その先を彼は言わなかった。まぁ言わなくても分かる。今ならまだ病気を理由に退く事もできる。そうすれば傷は浅く済む。荒れれば本当に終わるぞ、と。私を案じて彼はそう言っているのだ。
ありがたい話だったが私は首を振った。
「降りたとしても逃げたと書かれるだけです。違いますか?」
役人は答えられなかった。
自分でも、本当に頑固だと思う。だがこれだけは譲れなかった。
舞台は私の人生だった。ここから逃げることは人生そのものを自ら手放すことと同義、だから私は舞台に立つと決めた。
それが間違いだったとは今でも思わない。
ただ──甘かった。私は舞台を信じすぎていた。舞台さえあれば大丈夫なのだと。
※※※
御前公演の夜、王立劇場は満席だった。
王城に隣接する儀典のための劇場で、幕は年に数回しか上がらない。格式という意味ではこの国で最も高く、役者にとってはミレニアの舞台とはまた別の意味で生涯に何度立てるか分からない場所である。
桟敷に国の重鎮が並び平土間は着飾った紳士淑女で埋まっている。切符は完売。この騒動の渦中で完売とは皮肉なことだ。
楽屋で私はいつも通り支度を済ませた。衣装。鬘。喉の調子も良かった。声は楽屋で朗々と鳴った。何も、いつもと変わらない。
──大丈夫だ。いつものようにやればいい。世間のことも写し絵のことも幕の内側までは追ってこれないのだから。
そうして私は舞台の中央に立ち、ついに幕が上がった。
魔法灯が満ちる──その瞬間に私は見てしまった。
いつもの観客がそこにいなかった。
代わりにあったのはオペラグラスの群れ。値踏みする視線。扇の陰で囁き交わす口元。嘲笑の支度を整えて私が何をしでかすかを待つ無数の目。
桟敷の要人が無表情に私を見下ろしている。
その視線の総量がいっせいに私に触れたと思った瞬間──喉の奥で、何かが、きゅう、と締まった。
第一声が出なかった。
間が空く。プロンプターの囁きが飛ぶ。
──わかってる、台詞ならわかってる!!!
なのに喉だ。喉だけが動かない。まるで見えない手に内側から掴まれているように。
もう一度口を開いた。空気だけが、ひゅ、と鳴った。
──声にならない。
──どうして。
客席のどこかで最初の失笑が起きた。小さな、本当に小さな音だった。だがその瞬間、満場の沈黙が意味を変えるのがはっきりと分かった。戸惑いが確信に変わっていく音だった。
──ほら見ろ。
──やはり。
──あの男は。
魔法灯の白い光の中に私は立っていた。舞台の上で私は声もなくただ突っ立っていた。裸で晒されているような心地がした。
幕が下りるまでの時間を私は今でもうまく思い出せない。
多分、思い出したくないのだと思う。
※※※
翌日の紙面は更に慈悲がなかった。
──満座の沈黙。声を失った「聖人」
──やはり疚しさか。動揺こそ何よりの自白である。
──潔白な男であれば御前で声を失うはずがない
あの夜を境に醜聞は「疑惑」であることをやめた。声が出なかった事実がすべての嘘を真にしてしまったのだ。
私を弁護する言葉はもうどこにもなかった。
騒ぎが一巡した夜、私は誰もいない稽古場に立った。 私は息を整え、背筋を立て、『竜殺し』の第一声を口にしようとした。
──喉は締まった。
空気だけが、ひゅ、と鳴る。あの夜と同じ音だった。誰もいない、ただの空っぽの稽古場なのに。
二度、三度と試した。台詞を変えた。役を変えた。若い頃に演じた名もない兵士のたった一行まで遡ってみたけれど駄目だった。「台詞」であろうとするだけで、声は喉の奥で凍りついてしまう。
ふと、ものは試しにとただ喋ってみた。
「……あー。今晩は、冷えるな」
出る。何の造作もなく声は出た。
「……それは出るのか」
思わず乾いた笑いとともに口に出してしまった。日常の声は出て役者の声だけが出なかった。
私の存在理由が、無くなってしまったのだとその時痛切に感じた。
それからの私の行動は早かった。
僅かな荷を鞄一つに詰め、私は部屋を引き払った。
兎にも角にも、遠くへと思い中央駅へと向かう。帽子を目深にかぶり、意図して気配を消すように動いたおかげで私に気づく者はいなかった。
気づかれたくもなかった。
駅に到着した私は切符売り場で路線図を眺めた。王都から幾筋もの線が延びている。北へ、南へ、海へ、山へ。
「あの~どちらまで?」
怪訝そうな窓口の声に私は答えられなかった。
行きたい場所が一つもなかった。
私は天涯孤独の身だった。幼いころに身を寄せていた教会のチャリティーで舞台に立ち、劇団のスカウトを受け、それからずっと舞台一筋で人生を送ってきた。
会いたい人も、待っている人も、帰る家もない。私にはずっと、舞台しかなかったのだ。その舞台を失くした今、私はどこへも行けないし、どこへ行っても同じだった。
「……この線は、どこまで行くんですか?」
「ホルンベルクです。何もない山ん中のしまいの駅ですよ」
「じゃあ、そこまで」
路線図の中でいちばん長く行く路線を買った。遠ければ遠いほどいい。誰も私を知らない場所へ。一刻も早く、ここから離れたかった。
魔導鉄道は、低く唸って王都を離れた。
車窓を見慣れた劇場街の魔法灯が流れていく。私の名が消えた看板も一瞬だけ流れて、消えた。私は目を閉じた。眠ってはいない。ただ、何も見たくなかった。
列車は走り続けた。街が畑になり、畑が森になり、森が山になった。乗客は駅ごとに減り、日が暮れ、また明けた。気づけば、車両に残っているのは私一人だった。
終着の一つ手前から車窓は深い山あいに入った。谷川が線路に寄り添っては離れ、また寄り添う。あるのは朝靄と、山の稜線と、名も知らぬ鳥の声だけだ。
「……終点、ホルンベルクー。ホルンベルクです」
間延びした車掌の声に、目を開けた。
小さな駅だった。ホームというより板を渡しただけの乗降場だ。降りたのは私一人。列車は私を置いて車庫のほうへのろのろと去っていった。
山の朝の空気は刃物のように澄んでいた。吸い込むと肺の奥まで冷たくなる。都では嗅いだことのない匂いがした。
駅名標の向こうに瓦屋根と煙突がぽつぽつ見える。鶏が鳴いている。
鞄を提げ直して私はゆっくりと歩き出した。
この時の私に何をしに来たのかと問われても、多分答えられなかっただろう。
強いて言うなら終わりに来たのだと思う。この静かな山あいで誰にも知られず、ゆっくりと枯れて消える。
あぁそれでいい。だって私は十分働いた。
もう、幕を下ろしてもいい頃だろう。
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