ヴィクトールの断罪
招待状が届いた時、私は正直なところ少し笑った。
オーレリア公爵夫人。それこそ長い間、あの女は劇場の桟敷に座り続けている。金は出す。口も出す。だが芝居の何が分かるでもないただの物好きな老貴族だ。
その老貴族が長旅から社交界へ戻ってきて最初にやることが観劇会か。それはまぁ結構なことだ。
断る理由はなかった。むしろ好都合だとも思う。あの夫人は、この国で最も影響力のある演劇の後援者だ。彼女の覚えがめでたければこの先の興行は格段に楽になる。
それに──
ふん、と私は招待状を指で弾いた。
彼女は長らくあの男の贔屓筋だった。誰よりも早く見出し、誰よりも長く支えてきた。そのご執心ぶりは社交界でも有名で正直に言えば私はそれが目障りでならなかった。
その夫人が今夜はこの私、ヴィクトール・ケストナーを招いている。
──あぁやっとだ。やっとあの男の時代が終わったのだ。
あれから半年、王都の演劇界の中心には私がいる。ミレニアの看板は私の名で埋まり、批評家は私を書き、貴族は私を呼ぶ。誰もあの男の名を口にしなくなった。
彼が今生きているのか、死んでいるのか、どうでもよかった。もはや誰の記憶にも残らないのだからな。
さてさて、噂の仮面劇とやらも観てやろうではないか。
どうせ田舎回りの一座が物珍しさで受けているだけの代物だろう。効果術や舞台の出来がやたら綺麗だという評判は聞いている。ならばそのスタッフだけ引き抜けばいい。今の私ならばそれができるのだから。
──そう、私は思っていたのだ。
あの夜、青銅座の桟敷に腰を下ろすまでは。
※※※
芝居は悪くなかった。
いや──正直に言おう。悔しいが良かった。
仮面の男が一人で何役も演じる。それだけの舞台のはずが、いつのまにか客席は物語に呑まれている。素人ではない。それどころか、王都の一線でも通用する。
どこの誰だ。この歳まで無名でいられる腕ではない。
だが、その苛立ちも笑いどころで何度も掻き消された。私も笑った。周囲の貴族たちも笑っていた。夫人など扇の陰で肩を震わせている。上等な娯楽だ。
──中盤に差しかかるまでは。
舞台の上で老いた流れ者が腰を下ろした。
演者は一人。もちろん子供はそこにいないが、あの男が視線を落とし小さな相手に話しかける仕草をするだけで、客席には確かに子供が見えていた。
「昔な、ある街にそれは立派な役者がいたそうだ」
最初は劇中の挿話かと思った。よくある構成だ。
──だが。
「その役者は真面目でなぁ。夜会にも出ず稽古場にばかり籠もっていた。だから──いざという時に、庇ってくれる人が一人もいなかった」
……なんだこの筋は。
「その役者を妬んだ男がいた。人気を二分する同じ役者だ。その男は考えた。あいつをどう堕とすか。……ところがこの立派な役者は独身でな。家族もいない。ただの女遊びでは、醜聞にならん」
周囲でくすくすと笑い声が起きた。喜劇の続きだと思っている。
私は笑えなかった。
「だから男は人妻を使うことにした」
──なんだと。
「祝いの席に、若い夫人を送り込む。夫には内緒でな。金とこの先の便宜を約束して」
私は桟敷の手すりを握った。
偶然だ。ありふれた筋書きだ。醜聞の話など、どこにでもある。そう思おうとした。
だが。
「その夫人が受け取った金は四百五十ゼルダ」
──息が止まった。
四百五十。
なぜ、その数字を。
周りの貴族たちはまだ笑っている。細かい数字を出すのが可笑しいという程度の笑いだ。
だが私は知っている。あの女に渡したのは確かにその額だ。
安い買い物だった、と当時は思ったことを覚えている。私の一晩の会食代にも足りない。それであの男の全部が消えるなら釣りが来るとさえ思った。
私は舞台を見上げた。
仮面の男はこちらを見ていない。目の高さはいもしない子供に向いたままだ。
「渡したのは興行筋の男でな。この男には癖があった。後ろ暗い話をするとき、必ず顎をさするのだ」
舞台の上で仮面の男の指が、顎をさすった。
私は、椅子から腰を浮かせかけた。
仲介の男の癖だった。有利に事を進めたいので指摘せず、黙っていた癖を……なぜこいつが知っている?偶然か?いや、偶然にしてはすべてが揃いすぎている。
誰が喋った。あの女か。いや、あの女は今も夫の隣で被害者の顔をしている。喋れば自分が破滅する。仲介の男か。あの男にも十分すぎるほど金を払った。
じゃあ、誰だ。
誰が、こいつに。
「男は、周到だった」
仮面の男は続けた。
「決行の日を選んだ。その役者を庇い得るたった一人の権力者が──国を離れる、その日を」
私は、隣の桟敷を見た。
オーレリア公爵夫人がそこに座り、微笑んで舞台を見ている。こちらを見てもいない。ただ静かに微笑んでいる。
背中に冷たいものが走った。
私が焦り、混乱していく最中もどんどん挿話は進んでいく。
書き足されていく嘘の続報、碌に掲載されない男の声明、夫の会見と、嘘の婦人の無言の涙。
──そして、あの御前公演。
ここまでくれば流石に客席もざわめき始めた。「これは……あの事件ではないか」 「いやまさか」「しかし……」 そのざわめきも私は遠くに感じていた。自分の心臓が立てる音がいやに大きく響き、それどころではなかったからだ。
「それでな坊主」
仮面の男は、子供に語るように言った。
「その悪い役者は勝ったつもりでいたのさ。相手は消えた。誰も自分を疑わない。何もかも思い通り……だが一つだけうっかりしていた」
その時舞台の灯りが──落ちた。
なんだ?何事だ!?
再度舞台の魔法灯が点灯する。しかし今度は、絞られた細い光だ。暗がりの中で仮面の男の輪郭だけが残る。
──そして、光が私を刺した。
一瞬、何が起きたのか分からなかった。目が眩んで周囲が見えない。ただ、視線だけが分かった。三百人の視線がいっせいに私に向いた。
「芝居ってのはな。観る側も舞台の上に上げられることがあるんだよ」
──逃げなければ。
理由はわからないがここにいてはまずい、まずいことになる。そう本能が囁き、私は立ち上がり、桟敷の扉へ向かおうとした。
「なぜ逃げる」
舞台から声が来た。
嗄れた老人の声ではなかった。
朗々と、劇場の隅々まで届く声。
──この声を、私は知っている。
「芝居はまだ終わっていないぞ」
足が、止まった。
長年袖で、楽屋で聞いた声だ。批評の最後に必ず名を出された、あの男の声だ。
──まさか。
そんな、まさか。あり得ない。あの男は声を失った。御前で、満座の前で、一言も出せなかったのだ。私はそれを紙面で読んだ。何度も読み返した。読み返すたびに笑ったのだ。
──なのに、なぜ。
足が動かない。止められた。あの声に、体が縫い留められた。
仮面の男がこちらを向いていた。
舞台が始まってからずっとあの男は一度もこちらを見なかった。それが今、まっすぐに私を見ている。
そして、流れるように仮面の紐に手をかけた。
──やめろ。
私はそう思った。理由も分からず、ただ、猛烈に、やめろと思った。
だがその言葉は届くことはなく、無慈悲に紐が解かれ、仮面が外れた。
私は、息を呑んだ。 他の観客たちも同じだった。
仮面の下から現れたのはくるりとやわらかい癖のついた髪。目じりに刻まれた深い笑い皺。この街の看板に幾度となく掲げられた顔。
「コンラート・ヴァイスだ!」
どこかで誰かの悲鳴のような声が上がった。それが引き金になって客席が沸騰した。誰かが立ち上がり、誰かが名を叫び、批評家が身を乗り出していた。
その喧噪の中であの男は静かに言った。
「久しぶりだな、ヴィクトール」
私の口は勝手に動いた。
「なぜだ……!なぜ、お前が、そこに立っている!」
「ここが舞台だからだ。役者が立つべき場所として、何もおかしくはないだろう?」
「こっ……声は!声は出ないはずだ!お前は御前で──」
「あぁよく知っているな」
あの男は朗らかに笑った。 御前で失態を犯した男とは思えない笑顔だった。
「ところで、ヴィクトール。」
あの男は、懐から一枚の紙を取り出した。
照明の下で、それがはっきりと見えた。
「これに見覚えは?」
──写し絵だった。
──動いている。紙の上で、若い夫人がふらりと傾ぐ。男が腕を伸ばして支える。そして、半歩、身を離す。それが繰り返されている。あの一枚。私が切り取らせた、あの一瞬の前後ごと。
──そんな、まさか、あり得ない。
──なぜ奴があれを持っている?どうして?
焦りに混乱した私の口から言葉が飛び出した。
「それは私が始末したはずだ!!!!」
劇場が静まり返った。
──自分の声が何を言ったのか。理解するのにたっぷり三秒かかった。
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