コンラートの帰還
あの方が現れたのは、地方巡業も順調に話題になった頃のとある宿場町での事だった。
宿の物置を借りただけの小さな楽屋で仮面を外し、汗をぬぐっていた私の背後で扉が開き、聞き覚えのある声がした。
「演技の幅を広げましたね」
鏡越しに目が合った。
濃紺の外套に身を包み、上品な帽子を被り、しゃんと伸びた背筋、そしてすべてを見抜くようなまっすぐな目──オーレリア夫人がそこに立っていた。
私はこの時は盛大に混乱していた。ただただ振り返り、間抜けに口を開け、役者にあるまじき無様さを披露していたように思う。
混乱の最中、必死でひりだした答えは「……ご無沙汰を、しております」となんとも月並みな挨拶だった。
「えぇ、ご無沙汰ですわ」
夫人は外套も脱がず、埃っぽい楽屋の小さな椅子に腰を下ろした。
「わたくしの留守中に随分と派手な芝居が打たれたようですわね」
その言葉に思わず私は目を上げた。
「……ご存じなのですか」
「わたくしを誰だとお思いですの?」
夫人はとても品よく上品に──鼻で笑った。
「どうやってここへ……」
混乱した私はどうにも間抜けな質問しかできないようだった。
「地方紙を集めさせました。そうしたら出てきたのですよ。田舎の宿場町で随分と腕のいい一人芝居が打たれている、とね」
「素晴らしい出来でしたわ。満員のミレニアの舞台と変わらず、良い舞台でした」
その時の気持ちは、何と言ったらよかったのだろう。
確かに演技に自信はあった、疑っていたわけではない──だが心の中では不安だったのだ。演技までダメになってしまっていたのなら、もう、本当に自分には何も残っていないのだと突きつけられるようで怖かったのだ。
夫人の言葉への返答に詰まっている私を、彼女は黙って見つめていた。
そして、少しだけ目元を強張らせた。
「申し訳ありませんでした」
「えっ?」
「わたくしがこの国にいれば、あなたが御前で声を失う前に舞台から引きずり降ろすこともできました。社交界に触れて回ることもあの記事を潰すこともできたでしょう。……わたくしがおらぬ間を狙われた。それが、悔しくて」
深く頭を下げられた。
王都社交界の重鎮が田舎の宿の物置で素性を隠さなければならぬほど追い詰められた役者相手に。
「や、やめてください!」
私は心底慌てた。
「奥方様が謝られる筋合いなどどこにもありません。あれは……私の脇が甘かっただけの話です」
「では、今はどうお思いです」
「い、今?」
さっきまでの殊勝な雰囲気は消し飛び、急に部屋の空気が変わったように感じた。
「正直に申しますとね、コンラート。わたくし、覚悟しておりましたのよ」
「覚悟、ですか? 」
「あなたが役者であることをやめ、このまま消えてしまいたいと思っているかもしれない、という覚悟です。もしそうならば、あなたの希望を尊重するつもりでした。ですが、蓋を開けてみればこうやって一座を起こし、演技の幅を広げながらも舞台に立っていて……」
獲物を見定めるようにきゅう、と夫人の目が細くなった。
「ねぇコンラート。あなたを陥れた相手と戦う覚悟はありまして?」
「……戦う覚悟があるかはわかりません。ですが……お恥ずかしい限りですが、私には《《これ》》しかありません」
──そうだ、町の皆を巻き込んでまで私は何をしたかったのか。
「私はまた、舞台に立ちたい。そう思っています」
「結構。まことに結構」
この老貴族は優雅に立ち上がり満足そうににっこりと笑った。
「では、あなたが戻る算段を考えましょう」
※※※
その夜の軍議は宿の一部屋を借りて行われた。
公爵夫人。ジェラルド。マルタ。ヘンドリック。ニコ。そして眠い目をこすりながらどうしても混ざると言い張ったミレイユ。
王都の大貴族と、山奥の田舎者達が同じ卓を囲む光景は控えめに言って現実感がなかった。だがマルタは臆さなかったし夫人も一切それを気にしなかった。(この二人意外に似ているのかもしれない)
「まず、申し上げておかねばならないことがございます」
夫人は卓の上で手を組み、私の方へ視線を向けた。
「あなたを陥れたのはヴィクトールです」
私は息を吐いた。
「……そうですか」
同じ舞台に立った男だ。共演もした。楽屋で軽口も叩いた。あの男の芝居を良いと思ったことも、一度や二度ではない。
そんな男にそこまで嫌われていたのかと。いくら歳を重ねたとしても、やはり心には来るものがあった。
「あの男が糸を引いていることは明白です。あの写し絵を最初に持ち込んだ筋、祝宴を取り仕切った興行主、記事を書いた記者──すべてあの男の周りにおります」
「じゃあ、しょっ引けばいいじゃないか」
「証拠がないのです」
マルタが身を乗り出したが、夫人は静かに首を振った。
「勿論、何もせずに手をこまねいてはおりません。ある記者と手を組んで、あの男の周りを洗わせております」
夫人が卓に置いたのは一枚の名刺だった。
「エルシー・ヴォーン?」
「彼女の事はご存じ?」
私は首を振った。
「『ヴェリタス日報』の劇評記者です。あの醜聞の直後、ただ一人写し絵の不自然さを検証する記事を書こうとし、握り潰され資料室へ飛ばされました」
「そんな記者が……」
「ええ。資料室で埃を被りながらまだ諦めておりません。わたくしが接触したとき、彼女何と言ったと思います?」
夫人は少し愉快そうに言った。
「『遅すぎます』とわたくしを叱りましたのよ。演劇界の重鎮であり公爵夫人であるこのわたくしを。気に入りました」
その女記者が王都側で証拠を集めているという。
「ただし、まだ足りません」
夫人は正直に言った。
「金の流れや周囲の情報は追えます。ですが、彼がやったという直接的な証明ができません」
「直接的……ですか」
「あの男は決して自分の名前が表に出るようには動いておりません。このまま告発しても物的証拠がなければただの推測……握り潰されて終わります」
卓が、静まった。
その静けさを破ったのはジェラルドだった。
この爺さんは軍議の間ずっと黙って酒を舐めていた。それが杯を置いてにたりと笑った。
「なら、本人に言わせりゃいい」
「……は?」
「証拠が足りんのだろう。ならば、当人の口から言わせればよかろうが。満場の客の前でな」
「そんなことが」
「できる」
ジェラルドは私を見返した。
「役者がひとり、舞台の上にいれば十分だ」
その夜、山奥の宿屋の一階でひとつの台本の骨組みが決まった。
※※※
「あたしは行かないよ」
具体的に王都へ向かう段取りを話している最中だった。どうやらマルタは最初からそう決めていたらしい。
「宿は空けられないし、ヤギの世話だってある。そもそも着いて行ったって、あたしにできることは飯を作るぐらいさ。そういうことは都の人にやってもらいな」
だけど、と彼女は続け、公爵夫人の前に立った。
「奥様。一つだけ、聞かせてください」
「なんでしょう」
「うちの客をもう二度とあんな目に遭わせやしませんよね」
私はハッと顔を上げた。マルタは、真正面から夫人を見ていた。
「あたしはね、都のことなんか何も分かりません。私にわかるのは田舎での宿の女将の仕事だけでさぁ。だから口を出す筋合いじゃないってのも分かってます。……でもねぇうちに来た頃のあの人の顔を、いちばん近くで見てたのはあたしなんですよ」
声が、少しだけ震えた。
「もしまた同じことになったら今度こそこの人は消えちまう。だから、今度はちゃんと守ってください」
夫人はしばらく黙っていた。
それから居住まいを正した。田舎の宿屋の板張りの床の上で王都の公爵夫人が正式な礼を執った。
「わたくしは一度、この方を守り損ねております。二度目はございません。すべてを敵に回しても、この方を守りますわ。オーレリアの名においてお約束いたしましょう」
マルタは、ぐしゃりと顔を歪めて、それから盛大に洟をかんだ。
「……へへっ安心したらつい…あーあ、みっともない。すみませんね、奥様」
「いいえ、かまいませんわ。にしても、あなた、とても良い啖呵でしたわよ。社交界にいたら三日で頂点に立てるでしょうね」
「奥様、勘弁してくださいよ」
※※※
王都へと発つ日がやってきた。
夫人は準備があるからと先に王都へ戻り、私たちは夫人の連絡を受けてホルンベルクの駅を旅立つこととなった。メンバーは私、ジェラルド、ヘンドリック、ニコの四名だ。
出発の朝、駅には町の人間が集まっていた。
板を渡しただけの小さな乗降場である。半年前、私が一人で降り立った場所だ。だが、今は一人ではない。
ミレイユは朝からずっと機嫌が悪かった。
マルタと一緒にミレイユも町に残ることになったからだ。一応我慢をしていた彼女だったが、魔導列車が入ってきた時、もう限界だと私の外套の裾をグッと掴んだ。
「おじさん、ほんとにいっちゃうの」
「ああ。行くよ」
「かえってくる?」
「……」
ミレイユの疑問には答えず私は膝を折った。
「ミレイユ。約束を一つしていいかな」
「やくそく?」
「ああ。おじさんはこれから、都で舞台に立つ。うんと大きな、納屋の何百倍もある劇場だ」
「なやの、なんびゃくばい」
「そうだ。そこでちゃんとやり遂げたら今度は君を招待する。今度は都で一番大きな舞台のいちばん良い席だ。君に、そこで舞台を見せてあげるよ」
ミレイユは、しばらく黙っていた。
そして、自分の心の中で何とか折り合いをつけたのか、絞り出すように言った。
「やくそく、だよ」
「ああ」
私は立ち上がって、魔導列車に乗った。
窓から見ると、ホームでマルタが手を振っていた。その隣で、ミレイユが両手を目に当てていた。泣くまいとしているのが分かった。泣くまいとして失敗していた。
列車が動き出す。
山あいの町が、後ろへ流れていく。
──半年前、私はこの線路を逆向きに走った。
何もかもを失って、行き先も決めず、たった一人でいちばん遠くへ行く切符を買って。
あの時はもう二度と戻ることはないだろうと思っていたのに。
今は仲間たちと共に王都へ行くことになるとは、当時の私は想像だにしていなかっだろう。
毎日19時更新予定です。




