「現在の犠牲」vs「将来の危険」
深夜だった。
王宮の灯火はほとんど落ちている。
長い廊下には人影もなく、外では冬風が石壁を鳴らしていた。
戦争が終わって三ヶ月。
王都には平穏が戻り始めていた。
市場は再開し、工房には職人が戻り、街道には商隊が行き交っている。
だが、平和とは静かな仕事だった。
戦争中よりも、むしろ終戦後の方が成尾――アレクト六世の睡眠時間は減っていた。
復興予算。
捕虜交換。
国境監視。
共同統治地域の調整。
難民再定住。
そして、各地で燻る小規模衝突。
完全な平和など存在しない。
成尾は最初からそれを理解していた。
執務室には、机いっぱいに書類が広がっている。
その中央にあるのは、一枚の羊皮紙だった。
そこには数字が並んでいた。
戦死者推計。
占領維持費。
飢餓予測。
孤児人口。
疫病発生率。
反乱発生確率。
成尾は羽ペンを動かし続ける。
「……」
カリ、カリ、と静かな音だけが響く。
やがて彼は小さく息を吐いた。
「やっぱりか」
数字は冷酷だった。
感情も。
正義も。
誇りも関係なく、人間の死を積み上げていく。
そこへ扉が叩かれた。
「まだ起きておられたのですね」
リゼットだった。
彼女は机を見て、眉を寄せる。
「……また計算を?」
「ああ」
「何をそこまで」
成尾は羊皮紙を見せた。
「戦争の“総損害予測”」
リゼットは目を細める。
そこには複数の項目が並んでいた。
完全占領案。
王家処刑案。
民族強制移住案。
全面報復案。
そして現在採用されている停戦案。
それぞれに、予測死者数が記されていた。
リゼットの顔色が変わる。
「……こんなに違うのですか」
「完全殲滅戦を選んでたらな」
成尾は静かに言う。
「数百万人死んでた」
部屋が沈黙した。
成尾は淡々と説明を続ける。
「首都攻略戦だけで数十万」
「その後の占領反乱でさらに増える」
「食糧生産崩壊」
「疫病」
「報復処刑」
「難民凍死」
「復讐戦争」
数字を見ればわかる。
戦争は、勝利した瞬間に終わるわけではない。
むしろそこから被害が爆発的に増える場合すらある。
「でも今の停戦案なら、恨みは残ります」
リゼットが低く言った。
「小規模紛争も起きるでしょう」
「起きるよ」
成尾はあっさり答えた。
「完全には止められない」
「なら、正しかったのですか?」
難しい問いだった。
成尾は少し黙った。
窓の外を見る。
王都の夜景。
暖かな灯。
どこかの酒場から笑い声が聞こえる。
あの光の一つ一つは、“死ななかった人間”の人生だ。
「未来の危険を恐れて」
成尾は静かに呟いた。
「現在を地獄にしてはいけない」
リゼットは黙って聞いていた。
「人間ってのはな、“もしまた戦争になるなら、今のうちに徹底的に潰せ”って考えがちなんだ」
「……」
「でも、それをやると、“今”大量に死ぬ」
成尾は数字を指した。
「未来の可能性をゼロにするために、現在を確実な地獄に変える」
「それは本末転倒だ」
リゼットは小さく息を呑む。
この世界の戦争観は、徹底排除だった。
危険は完全に消す。
敵は根絶やしにする。
少しでも将来の火種があるなら、今のうちに焼き払う。
だが成尾は違った。
彼は“総量”で考えていた。
「犠牲をゼロにはできない」
成尾は静かに言う。
「だったら、“最も少なくなる形”を選ぶしかない」
「……犠牲総量」
「そう」
彼は再び数字を見る。
小規模紛争で死ぬ千人。
全面戦争で死ぬ数百万人。
どちらも悲劇だ。
だが、同じではない。
「理想の平和なんて存在しない」
成尾は苦く笑った。
「あるのは、“よりマシな地獄”だけだ」
◇
数日後。
国境地帯で小規模衝突が起きた。
旧オーストリン残党による襲撃。
死者は二十三名。
王宮では即座に強硬論が噴出した。
「だから言ったのです!」
「甘やかすから反乱が起きる!」
「今からでも徹底掃討を!」
会議室は怒号に包まれる。
だが成尾は冷静だった。
「被害規模は?」
「兵士十九名、民間人四名」
「周辺都市への拡大は?」
「ありません」
「食料供給網は?」
「維持されています」
「なら想定内だ」
将軍たちが絶句する。
「二十三人死んだのですぞ!?」
「知ってる」
成尾の声は低かった。
「だから悲劇だ」
「ならば――」
「でも、全面占領戦なら今日だけで二万人死んでた」
場が止まる。
「感情だけで判断するな」
成尾は静かに言った。
「人は目の前の死には敏感だ。でも、“回避できた大量死”は見えない」
それが政治だった。
救えなかった二十三人は批判される。
だが、防いだ数百万人の死は誰にも見えない。
「王は、“見えない死者”まで数えなきゃならない」
リゼットは、その言葉を黙って聞いていた。
◇
その夜。
成尾は再び、一人で数字を書いていた。
戦争とは何か。
平和とは何か。
正義とは何か。
考えれば考えるほど、答えは曖昧になる。
だが、一つだけ確かなことがあった。
人は、未来を恐れるあまり、現在の人間を犠牲にしすぎる。
“いつか危険になるかもしれない”。
その言葉は便利だ。
粛清も。
虐殺も。
民族浄化も。
全部、“未来の安全”という名目で行える。
だから成尾は、自分に何度も言い聞かせていた。
「未来はまだ存在しない」
ペン先が止まる。
「でも、今死ぬ人間は実在する」
その重みだけは、絶対に忘れてはいけない。
王とは。
国家とは。
戦争とは。
結局のところ、“誰をどれだけ死なせるか”を決める装置なのだ。
だからこそ。
成尾は理想ではなく、“犠牲総量”を見続けていた。
救えない命があることを知りながら。
それでも、少しでも地獄を減らすために。




