終戦のエピローグ
晩秋だった。
王都ルクセリアの離宮は、静かな夕日に包まれていた。
かつて毎日のように軍使が駆け込み、怒号と報告で眠る暇もなかった廊下は、今では驚くほど穏やかだ。
窓の外では、孫世代の近衛兵たちが訓練している。
彼らはもう、“国境の向こうは絶対の敵”という感覚を持っていなかった。
演習には、共同管理地域出身者も混ざっている。
昔なら考えられない光景だった。
老いた成尾――アレクト六世は、その様子をぼんやり眺めていた。
髪は完全に白くなり、右手には杖がある。
長い年月だった。
転生した日。
豪奢な天蓋の下で目を覚ました朝を、彼は今でも覚えている。
三日後に開戦。
世界は、戦争の始め方しか知らなかった。
終わらせ方を知らなかった。
だから彼は、終戦を設計した。
有条件降伏。
共同管理地域。
王政保持。
軍縮。
段階的民主化。
敵視政策停止。
どれも最初は理解されなかった。
いや、今でも完全には理解されていない。
それでも。
少なくともこの数十年、大陸全土を焼くような大戦争だけは起きていない。
それだけで十分だった。
執務机の上には、一冊の分厚い原稿が置かれている。
題名はまだない。
後世のために書き残している、戦争と終戦の記録だった。
成尾はゆっくりとペンを取る。
震える指先。
老眼で文字は少し滲む。
それでも彼は、一文字ずつ丁寧に書いていった。
『戦争とは、勝つ技術ではない』
ペン先が止まる。
遠くで鐘の音が鳴った。
夕刻を知らせる鐘だ。
成尾は静かに目を閉じる。
これまで見てきた光景が、脳裏を流れていく。
燃える街。
泣く子供。
復讐を叫ぶ兵士。
勝利に酔う将軍。
そして。
市場で値切り交渉をする元敵兵たち。
戦争は、人間の感情を極端にする。
正義。
憎悪。
恐怖。
愛国心。
復讐。
その全てが、“敵を滅ぼせ”という方向へ収束していく。
だが。
本当に難しいのは、そこではなかった。
勝つこと自体は、極論すれば暴力の量で決まる。
より多く殺し。
より多く奪い。
より長く耐えた側が勝つ。
問題はその後だ。
勝利のあと、人間は簡単に理性を失う。
「もっと奪える」
「今のうちに根絶やしにしろ」
「次の脅威を残すな」
その欲望が、次の戦争を育てる。
成尾は再びペンを走らせた。
『戦争とは、終わらせる技術である』
インクが静かに紙へ染み込んでいく。
その時、扉がノックされた。
「陛下」
リゼットだった。
彼女ももう老いている。
だが背筋だけは、昔と変わらず真っ直ぐだった。
「まだ書いておられたのですね」
「ああ」
「お身体に障ります」
「もう十分長生きしたよ」
成尾は苦笑する。
リゼットは机の原稿へ目を向けた。
「完成しそうですか」
「いや」
成尾は首を振った。
「たぶん、一生完成しない」
「……?」
「人間が戦争する限り、答えも変わり続ける」
完全な終戦理論など存在しない。
時代が変われば、正解も変わる。
だから彼が残せるのは、“考え続けろ”という姿勢だけだった。
リゼットが静かに言った。
「ですが、多くの人が救われました」
「どうかな」
成尾は窓の外を見る。
「俺はたぶん、“少しマシな地獄”を作っただけだ」
世界から争いは消えていない。
差別も。
憎悪も。
小競り合いも。
人間は相変わらず愚かだった。
それでも。
数百万人が死ぬ大戦争を防げたのなら。
焼け野原になる都市を減らせたのなら。
孤児になる子供を少しでも減らせたのなら。
その価値はあったと思いたかった。
成尾は最後に、小さく追記を書き加える。
『さらに難しいのは――』
少しだけ手が止まる。
そして。
『終戦後に、次の戦争を育てないことである』
書き終えた瞬間、彼は静かに息を吐いた。
窓の外では、夕日が沈みかけている。
遠く国境方面へ続く街道には、無数の灯が見えた。
商隊の灯。
旅人の灯。
人々の生活の灯だ。
かつて、あの道は兵士と死体で埋まっていた。
今は違う。
完全な平和ではない。
理想郷でもない。
それでも、人々は明日の商売を考え、家族の夕食を考え、子供の成長を気にしている。
それこそが、本来人間が生きるべき時間だった。
成尾はゆっくり椅子にもたれた。
世界は、きっとまた争う。
人間は忘れる。
恐怖も。
歴史も。
愚かさも。
だがそれでも。
誰かが、“終わらせ方”を記録し続けなければならない。
戦争を始める方法は、放っておいても人類は覚える。
だからせめて。
終わらせる技術だけは、失われてはいけなかった。




