十五年後。
十五年後。
春の雨が、国境都市ルーゼンの石畳を静かに濡らしていた。
かつて“血の回廊”と呼ばれた街道は、今では巨大な交易路になっている。
荷馬車が行き交い。
商人が叫び。
パンの匂いが漂う。
国境市場は、朝から騒がしかった。
「高すぎる!」
「これは今年一番の出来だぞ!」
「去年の半額にしろ!」
「冗談じゃない!」
魚屋の前で、大滝王国人の女商人とオーストリン人の老人が激しく値切り交渉している。
周囲の人々は慣れた様子で笑っていた。
「また始まった」
「今日はどっちが勝つかな」
十五年前なら考えられない光景だった。
この街では十万人以上が死んだ。
家は焼かれ、井戸には死体が沈み、城壁は砲撃で崩壊した。
今でも、石畳を掘れば時々古い弾丸が出てくる。
だが。
人間は、それでも生きていく。
◇
市場中央の酒場。
昼間から騒がしいその店では、数人の老人たちが酒を飲んでいた。
「だから俺は言ったんだ。あの丘は危険だって」
「お前、真っ先に逃げたじゃねえか」
「逃げてねえ! 戦術的後退だ!」
笑い声。
木杯のぶつかる音。
彼らは元兵士だった。
大滝軍。
そして旧オーストリン軍。
十五年前なら、互いの喉を掻き切っていた男たちである。
隅の席では、若い旅人が呆然とその様子を見ていた。
「……本当に戦争してたんですか?」
老人の一人が吹き出す。
「したさ」
「派手にな」
「じゃあ、なんで今一緒に酒飲んでるんです?」
少しの沈黙。
やがて、片腕のない老人が肩をすくめた。
「戦争終わったからだろ」
それだけだった。
特別な和解の演説もない。
感動的な友情もない。
ただ、戦争が終わり、時間が流れ、生き残った人間が歳を取った。
それだけだ。
◇
市場の奥では、子供たちが遊んでいた。
追いかけっこ。
木剣遊び。
石蹴り。
その中で、少女たちが歌っている。
不思議な歌だった。
大滝王国の春歌に、オーストリン民謡の旋律が混ざっている。
発音も半分ずつ。
どちらの国の歌とも言い切れない。
「それ、どこの歌?」
旅人が尋ねる。
子供たちは顔を見合わせた。
「知らない」
「昔から歌ってる」
「学校で習った!」
そう。
もう彼らには、“敵国の歌”という感覚が薄れていた。
生まれた時には、すでに戦争は終わっていたからだ。
◇
もちろん。
全てが平和になったわけではない。
市場の裏路地には、今でも過激派の落書きがある。
“国境を取り戻せ”。
“復讐を忘れるな”。
地方では時折、小規模衝突も起きる。
戦争孤児だった者の中には、今でも大滝王国を憎む者がいる。
逆もまた同じだ。
十五年程度で、人間の感情が消えるわけではない。
そんな簡単な話ではない。
だが。
“大戦争再開”だけは起きなかった。
◇
王都ルクセリア。
成尾――アレクト六世は、執務室で静かに報告書を読んでいた。
髪には少し白いものが混じり始めている。
机の上には、国境地域の最新統計。
交易量増加。
混成学校比率。
婚姻統計。
紛争発生件数。
どれも完璧ではない。
むしろ問題だらけだった。
それでも。
十五年間、“全面戦争”だけは回避されている。
リゼットが紅茶を置きながら言った。
「不思議ですね」
「何が」
「昔は、毎年のように戦争していたのに」
成尾は少し笑った。
「人間、案外慣れるんだよ」
「平和に?」
「共存に」
最初は憎み合っていても。
市場で毎日顔を合わせ。
同じ橋を使い。
同じ雨に降られ。
同じ価格高騰に文句を言っているうちに。
“敵”という抽象概念が、少しずつ薄れていく。
「もちろん、全部は消えない」
成尾は報告書を閉じた。
「憎しみも残る」
「過激派もいる」
「差別もある」
「でも、それでいい」
リゼットが静かに目を細める。
「よろしいのですか」
「完璧じゃなくて?」
成尾は窓の外を見る。
王都の街には、オーストリン商人の姿も増えていた。
昔なら石を投げられていた光景だ。
「平和ってのはな」
彼は静かに言う。
「“誰も憎まない世界”じゃない」
「……」
「“憎んでても、大戦争にはならない状態”だ」
それが現実だった。
人間から敵意は消えない。
国家から利害対立も消えない。
だから本当に必要なのは、“争いをゼロにすること”ではない。
争いが、全面破滅へ拡大しない構造を作ることだ。
◇
夕方。
成尾は久しぶりに国境市場を訪れていた。
護衛を減らし、普通の外套を羽織って歩く。
誰も王だとは気付かない。
市場の喧騒。
焼き肉の匂い。
子供の笑い声。
値切り交渉。
その中で、一人の老人が彼を見て言った。
「旅人か?」
「ああ」
「なら飲んでけ」
差し出された酒瓶。
老人の腕には、旧オーストリン軍の古い傷跡があった。
成尾はそれを見て、小さく笑う。
「……そうする」
二人は並んで座る。
特に感動的な会話はない。
天気の話。
作物価格。
最近の橋工事。
そんな他愛もない話だけだ。
だが。
かつて殺し合っていた人間同士が、“退屈な日常”を共有している。
それこそが。
成尾が十五年かけて作ろうとしていたものだった。
◇
夜。
国境の丘に立った成尾は、遠く市場の灯を眺めていた。
完璧な平和ではない。
理想郷でもない。
きっと未来にも争いは起きる。
それでも。
少なくとも今夜。
数百万人が死ぬ戦争は起きていない。
その事実だけで、十分だった。
成尾は静かに目を閉じる。
かつてこの世界は、“戦争の始め方”しか知らなかった。
だが今。
少しだけ、“終わらせ方”を覚え始めていた。




