12.穂谷慎一郎
穂谷慎一郎は東京H署の小さな会議室に通され、そこで待つように言われた。穂谷は椅子に座ったものの、黒縁眼鏡の奥にある目は虚ろになっていて汗を拭きながら長い髪をいじり回していた。
しばらく待たされた後、鹿子木と春田が部屋に入ってきた。質問は主に鹿子木が行ない、春田は聞き役に回った。
「穂谷慎一郎さんですね?」
「はい、そうです。私は何か悪いことでもしたと思われているのでしょうか?」
「いやいや、そういうことではありません。お忙しい所お呼び立て致しまして、申し訳ありません。実は少し前につくばで中毒事件が発生しましてね」
鹿子木は事件の概要を簡単に説明し、ケーキを作った桜井雄峰が事件の関係者の一人と考えられており、事件の直前につくばで穂谷が桜井と接触したことが分かったので、話を訊きたいと告げた。
「ああ、良かった」
穂谷は本当に安心したような顔つきになり、大きく息を吐いた。
「ああ、そうですか、そんな事件があったんですね。私は桜井さんと話した後は一度もつくばには行っていませんので、そんな事件があったなんて全く知りませんでした」
「その後、中毒になった下狛翔子という女の行方が掴めていないのです」
「誰ですか、その下狛とかいう女は?」
「あれっ、ご存じないのですか?」
「そんな女の名前なんて聞いたことがありませんよ」
「穂谷さんは結婚詐欺に遭ったと訴えておられましたよね。十分な証拠がなくて立件できなかったようですが」
「そうです。本当に酷い目に遭ったというのに、警察ではあの女を逮捕してくれなかったのです」
「本当に申し訳ありませんでした。私も警察の組織の一人として残念でなりません。それでですね、その時穂谷さんを騙したと思われる女が下狛翔子だったんです」
「そうだったんですか。あの女は下狛翔子というのが本名だったんだ。私には葉山京子と名乗っていましたが」
「穂谷さんはその時のことを相当恨んでおられるようですね?」
「そりゃそうでしょう。一千万円を超える金額を騙し取られたら、普通誰だってその人を恨むでしょう。そういう感情はおかしいですか?」
「いえいえ、至極ごもっともなお気持ちだと思いますよ。そんな思いを他の男の人にさせるのを食い止めようという崇高なお気持ちで穂谷さんはつくばまで行かれて、桜井に忠告されたんですよね?」
「その通りですよ。あんな酷い思いは私だけで沢山です。それと、あの女の犯罪の証拠を何とかして掴みたいという思いもあったものですから。日本には正義というものがないのも同然ですからね」
「まあまあ、そう憤らないでください。お気持ちは十分にお察しします。ところで穂谷さんはどうやって下狛がつくばにいることを知ったのですか?」
「私は外出した時は常に周りの人間をよく観察するようにしていたのです。少し前に朝早い電車の中であの女によく似た人を見つけました。多分本人だろうと思いましたが、私と交際していた頃とは外見も雰囲気も少し違うようにも思えて、直ぐに声を掛ける勇気が出ませんでした。それで、あの女の跡をつけていったんです」
「そうしたらつくば付近まで来てしまったということですか」
「はい、その通りです。そのまま跡をつけていったらあのハンバーガーショップに入っていったのです。その時はあの女は何もしないで東京に帰ったのですが、念のため後日同じような時間に何度かあそこに行ってみたのです。そうしたらあの女が桜井さんと話をしていたんです」
「それで桜井さんに忠告してあげたんですね」
「そうです。詐欺の被害に遭った時の悔しさは本当に酷いものでしたからね。他の人に同じ思いをさせたくないという気持ちが湧いてきたんですよ」
「そんなに強い気持ちがあったのでしたら、何故あなたがあの女に結婚詐欺を働かれたと桜井に言ってあげなかったんですか?」
「初対面の人にそこまで言ったら、下手をすればあの女に私が名誉棄損罪で訴えられるかも知れないと思ったからですよ。とにかくあの女はとんでもない人間なんですから」
「そうですか。ところで話は変わりますが、今年の七月十四日水曜日の午後、穂谷さんはどこにおられましたか?」
「えっ、それって、私のアリバイですか……。ということは、もしかしたら私が犯人だと疑われているということですか?」
「いやいや、疑いを持っているなんてことはありませんが、一応関係者になりますので、いろいろとお訊きしようと思っているのです」
「そりゃ、私はあの女に騙されて酷い被害に遭ったんですから、あの女のことを憎んでいたことは認めますよ。だからって、殺そうなんて考えたことはありません。本当です。ただ、あの女の犯罪の証拠を見つけて何とか警察にあの女を逮捕してもらいたいという思いと、私と同じような被害に遭っている人が他にもいるらしいと聞いていたので、新たな被害者を出さないようにしてあげようと思ってつくばまで出かけたんです。毒なんて盛ったりしていませんよ」
「お気持ちはよく分かります。それで、七月十四日水曜日の午後、穂谷さんはどこで何をされていましたか?」
穂谷は気を取り直した様子で、ポケットから手帳を取り出しページを捲っていたが、指定された日が見つかったようであった。
「ええと、その日の午後、私は千葉県の柏の葉キャンパス駅に行っていました。つくばからの帰りの電車に乗っていた時、新しい街ができていたので行ってみたくなったんです」
「そこで何をされていたんですか?」
「先ずはぶらぶらと歩いて街並みを見て回りました。あそこには大きなショッピングモールがあったので、ウインドウショッピングをしていました」
「どこかの店で買い物なんてされませんでしたか?」
「大きな買い物はしていません。でも午後四時頃だったかなあ、一休みしたくなったので、中にあったカフェでコーヒーとチョコレートの入った菓子パンを買って、そこで食べました」
「その時のレシートとか店員さんの名前とか、穂谷さんが確かにそこにいたという証拠になるようなものはありませんか?」
「レシートなんていちいち保存していないし、店員の名前なんて普通見ていないでしょう?」
「そうすると、現時点では穂谷さんのアリバイを証明してくれる人や物は何もない、ということですね?」
「……。でも、私は毒なんて盛っていませんよ、本当に」
そう言ったきり、穂谷は黙ってしまった。
それ以上穂谷を追及する材料が鹿子木にあった訳ではなかったので、しばらく同じようなことを訊かれた後、穂谷は東京H署から解放された。
それから五日後の夜遅く、鹿子木の姿が筑波ホビークラブの受付の中にあった。
「神尾さん、電話もせずに突然押しかけてきて済みません。例の中毒事件がにっちもさっちもいかなくなってしまいましたので、また神尾さんのお知恵を拝借しようと思ってやってきました」
「大丈夫です、私は全く構いませんよ。ただ、もう愛ちゃんは帰ってしまいましたので、私が淹れたコーヒーです。鹿子木さん好みのコーヒーじゃないでしょうけど、まあ、一口飲んで落ち着いてからお話してください」
鹿子木は礼を言ってからコーヒーに口を付けると、直ぐに喋り始めた。
「穂谷慎一郎についてですが、あの男とは連絡を取ることができましたので、この前ここに来た次の日に東京H署で春田刑事に協力してもらって話を訊くことができたんです」
鹿子木は苦々しいような顔をして経緯を話し始めた。
「穂谷は下狛翔子に騙されて酷い被害に遭ったので下狛のことを恨んでいたことは認めました。だけど、下狛の犯罪の証拠を見つけるためと、新たな被害者を出さないようにするためにつくばまで行っただけで、毒なんて盛ったりしていないと強い態度で否定しました。ただ、現時点では七月十四日水曜日午後の穂谷のアリバイは証明されていませんけどね」
「そうだったんですか……。ところで、警察では上津屋さんに尋問することができるんでしょう?」
「まあ、確かにそうなんですけどね……。まだ逮捕できているわけではありませんので、あまり詳しく尋問することはできないんですよ」
「そうすると、捜査はまた振り出しに戻ってしまったというわけですね」
「そうなんです。それで困ってここに来たんです」
「あっ、そうそう。鹿子木さんは桜井さんをもう一度尋問してみると言われていましたけど、どうなりました?」
「いやー、桜井も警察のことをあまりよく思っていないようで、いろいろと訊いてみたんですけどね、神尾さんからお聞きしたこと以上の情報は全く掴むことができなかったんです」
「あとは……、上田司さんと下狛翔子さんの消息はまだ掴めていないのですか?」
「そうなんです。先ずは下狛に関していろいろと捜査してはいるんですけどね」
「うーん、そうなると、きちんとした尋問はできないにしても、上津屋さんからの新たな情報を何とかして得たいところではありますね」
「上津屋はこれまでの尋問でもそうでしたが、下狛にとって不利になるようなことに関しては一切口を開こうとはしません。彼奴は下狛がいないとまともなことが一人ではできないと思っているんじゃないでしょうか」
「うーん、困りましたね。どうしようかな……」
暫くの間二人の沈黙は続いた。五分くらい経ってからようやく洋介が口を開いた。
「それじゃ、私の方でもう一度桜井さんに話を訊いてみましょうかねえ」
「そうですか。どうかよろしくお願い致します」
そう言うと、鹿子木は元気なく筑波ホビークラブから帰っていった。




