第39話 流言 8
シュクトの胸がゆっくりと上下している。
まだ目覚める気配は無い。
一度ヴィンドゥが様子を窺いに来たけれど、眠ったままの彼を見て、また帰ってしまった。もう一度様子を見に来ると言って。
私とマリーもシュクトをこのまま寝かせておいて、診察室から一旦退室することにした。
まだ仕事が残っている。けれど、病人が眠っているというのに物音を立てる訳もいかない。
いつもより遅れてしまった仕事を片付けて、今までの診察や処置の記録に取り掛からなければ。
見れば、時計はとっくに終業時間を過ぎていた。治療院の人影は随分と少なくなっていて、廊下はがらんとしていた。窓の外は薄暗く、いつの間にか照明が灯っている。
今ここに残っているのは私たちと、仕事を押し付けられてしまった不運な助手位だろう。
急がなければ。この調子では明日の出発にも影響が出てしまう。
私は診察室の隣にある部屋で、机の上に書類を広げた。
せっせこ記録をこなしていると、マリーが遠慮がちに声をかけてきた。
「今日は忙しくてお疲れになったでしょう? いまからお茶を用意いたしますわ。ついでに甘いものも」
マリーは部屋の隅にしつらえてある小さな洗面台程度の流しに立った。有り難い事に、ここではお湯が準備出来るようになっているのだ。
疲れているのは私だけでは無い筈だ。根気良く手伝ってくれたマリーだってそう。
私は感謝の気持ちを込めて礼を述べると、机の脇にそっと置かれた湯気の立つカップに口を付けた。
用意してくれた甘いお菓子と少し苦めのお茶は、疲れた頭と身体には丁度良かった。
「ありがとう、ごちそうさまでした。ねえ、マリー。私、ちょっと診察室を覗いてくる。シュクトの状態が気になるから」
先程から彼の様子が気にかかっていた。丁度良いので、お茶の片づけをしているマリーに伝えてから席を立つ。
大きな物音を立てないよう静かに診察室へと入ると、そこには依然寝息を立てているシュクトの姿があった。どうやら落ち着いたのか、彼の容体は安定しているみたいだった。
私は実際に状態を確認しようとシュクトの傍に近寄ると、異常が無いか窺うために前屈みになった。
「シュクトさん」
声をかけるが返事や反応は無い。
彼の呼吸は安定していて顔色も良くなっていた。左手首の脈を確かめれば、規則正しいリズムで打っている。身体の熱も下がったようで、汗が引いた後の浅黒い皮膚はしっとりとしていた。
ふむ。眼を覚ます様子は無いようだ。考え込みながら顔をそっと覗きこむ。
体温を測ろうと器具を手に持ってシーツをめくる。その前に、一応「失礼」と声をかけて。彼に聞こえているかどうか分からないけれど。
その時、首筋がちくりとした。虫に刺された様な感じだ。
「っつ。何?」
驚いて首筋を押さえながら飛びのくと、シュクトが上半身を起こして座っていた。その右手には、細いペンを思わせる物を持って。
今のは何? 彼は眠ってなどいなかったの?
まるで、眠っていたなど嘘のよう。
疑問は直ぐに不安へと変わった。頭の中で、チカチカと危険のサインが点灯した。
「起きていたのですね、シュクトさん。どうですか、具合は」
言いながら、私は戸口へと後ずさる。じわじわと、少しずつ。相手にそれと気付かれないように注意しながら。
「ええ。貴方のお陰で随分と楽になりました」
しっかりとした返事だ。高熱を出して眠っていたとは到底思えない。
彼は冷たい眼で私を見た。
「治療してくれた貴方には感謝していますよ」
シュクトは隙の無い身のこなしで立ち上がった。とてもではないが、病人の動きではない。
彼はゆっくりとこちらに向かってくる。
いけない。
出来るだけ距離を置き、診察室から逃げなければ。マリーにも危険を伝えないといけない。
「まだ、安静にしておかないと……」
不自然にならないよう集中しながら後ろへと下がる。けれど、思うように身体が動かなくてもどかしい。
いやに足が重い。それだけじゃない。まるで、身体全体に重りを繋いでいるみたい。
数歩下がった所で自分の意思に関係なく両足の力が抜けた。
ぐにゃりと景色が歪む。
咄嗟に何かにつかまろうと手をだそうとしたが、それも出来ない程力が入らない。
あっと思った時には床に身体を打ち付けていた。痛みと衝撃があって、脳震盪を起こしたみたいに頭がぐらぐらと揺れた。じわりと涙がにじむ。
身体を起こそうとしたが、指一本動かす事が出来ない。
不安に焦る気持ちを無視して、身体は意志に従おうとしない。ゆっくりとこちらに向かって近付いてくる足音が聞こえた。声すら出せないけれど、耳は聞こえるらしい。
私の歪んだ視界に入ってきたのは、靴を履いているシュクトの足だった。
しまった、やられた。先程の痛みは何かの薬を盛られたのだ。
後悔したが、もう遅い。
マリーの身が心配だ。しかし、彼女に危険を伝える手段さえない。だめだ、何も考えられなくなってきた。
そのまま、私の意識は黒く塗りつぶされてしまった。