009 呪いの正体
「嫌ぁ!」
嫌と叫ぶと同時に、パトリシアがエセルバートから勢いよく顔をそらした。華奢な体は、カタカタと震えている。
「パトリシア⁉ どうしたの?」
「……嫌、怖い。お姉様ぁ……」
涙を浮かべながらイザドラを見つめるパトリシアに手を伸ばそうとした瞬間、エセルバートがパトリシアの名を呼んだ。
「パトリシア・アドコック」
「……ひっ」
その声を聴いた瞬間、パトリシアだけではない、イザドラも身を固くした。美しく威厳のある、正に人に命令することに慣れている者の声だ。
「王弟として命じる。ここで見たことは他言無用だ」
(ここで見たこと……体調を崩されていたこと?)
だがパトリシアが来た時には、すでにエセルバートの顔色は随分と良くなっていた。ならば――。
(……私と共にいたこと?)
このような人気のない場所で、独り身の女性と二人きり。噂になっては困るということだろうか。そう考えたイザドラの胸が、大きく軋んだ。
エセルバートの心配は当然のことだ。それに、噂になって困るのは、何もエセルバートだけではない。どちらかと言えば、そのような噂が流れて困るのは、イザドラの方だろう。だというのに、拒絶されたような気になってしまったのだ。
「理解したか? パトリシア・アドコック。お前が吹聴すれば、その咎は家族にまで及ぶことになる」
「わ、わかりました……」
普段のパトリシアらしくない、口調と態度だった。それほどまでに、今のエセルバートを恐れているのだろう。目には涙が浮かんでおり、歪んだ唇は震えている。
「理解したなら、今すぐここから去れ」
エセルバートが言うや否や、パトリシアは一目散にかけて行った。だが、よほど怖かったのだろう、かけていくその足取りはおぼつかない。
残されたイザドラとしては、自分もパトリシアの後を追うべきか、このままここに残るべきか、悩む羽目になってしまった。
(私は去れとは言われていないけど、パトリシアの様子も気にかかるわ……)
普段天真爛漫なパトリシアが、あのように怯えるとは大層珍しい。
一瞬だけエセルバートとの間に何かあったのかと馬鹿なことを考えてしまったが、よくよく考えてもみれば、パトリシアは最初エセルバートを探していたし、その時の様子は通常通りだった。
おそらくは体調を悪くし気が立っていたエセルバートと相対し、萎縮してしまったのだろう。
特に先ほどパトリシアの名を呼んだ時のエセルバートには、イザドラでさえ身の縮む思いをしたのだ。普段甘やかされているパトリシアなら、なおさらだ。
(きっと、そうね。あの子、身分の高い方たちにも可愛がられていたから)
身分の上の者に厳しい態度で命令されたことなど、はじめての経験だった可能性すらある。
「イザドラ嬢」
ふいに名を呼ばれ、イザドラは慌ててエセルバートを振り返った。
「大公様。妹が失礼いたしました」
いくらエセルバートの迫力に恐れをなしたとしても、その気持ちを実際に口にするとは、無礼にも程がある。
「……貴女は、私が怖くないのか。いや……見えていないのか?」
(また……)
そう問われるということは、実際には見えて然るべき何ものかが、イザドラの目には見えていないということになる。だがイザドラの目には、彼の姿以外何も映るものはない。
(私の目が、普通とは違うから……?)
だから見えないのだろうかと、そんなことを考えてしまう。
先ほどのパトリシアの目には、イザドラが見ている彼とは違う彼の姿が、あるいは彼の傍にいる何かが映っていたのだろうかと。
「……先ほどもそのようにおっしゃいましたが、私の目には、何も見えません。初めてお会いした時からの、変わらぬお姿しか……」
「初めて会った時から……」
エセルバートは、何か考え込むかのように視線を下に向け、しかしすぐに何かに思い至ったらしく顔を上げ、じっとイザドラの瞳を見つめてきた。
「イザドラ嬢。貴女の目に、私の姿はどう映っている?」
「え? 大公様のお姿ですか?」
大公である彼の命じたことに逆らうことは、どう考えても得策ではない。だが、呪いの証とされている状態を口にすることも、正直憚られてしまう。
どうしたものかとイザドラが躊躇っていると、エセルバートに答えを催促された。
「遠慮せずに言ってほしい。何を口にしても、私がそのことを問題にすることはない」
ここまで言われては、言葉を濁してやり過ごすことは難しい。観念したイザドラは、目の前の美しい男を讃える言葉を紡ぎ出す。
「……眩い銀の御髪に、金色の瞳。美しい顔に、それから……」
やはりそれ以上の言葉を口にするとなると、途端に気が重くなってしまう。自分の立場に置き換えてみれば、なおさらだった。どうか許してくれないだろうかと、イザドラが思っていると――。
「それから?」
再び、エセルバートに促されてしまった。
イザドラは仕方なしに、続きの言葉を紡ぎはじめた。
どうかこれから自分が口にする言葉が、彼を傷つけることがないようにと願いながら。
「……整ったそのお顔に、大きな青痣に見える、鱗をお持ちです」
そう答えた途端、どこか気の抜けたように、エセルバートが息を吐きだした。
「……そうか。見えていたのか」
「え……?」
(見えている? 何を……まさか、鱗のこと?)
まさか、と。
イザドラは、茫然とエセルバートの顔を見上げた。
顔の左上半分に広がった、青い鱗。先祖が竜を倒したことで、受けた呪い。
その代償としての呪いは、皆に見えているものと思い込んでいた。ただ、エセルバートの大公という尊い身分ゆえ、そして類まれなその美貌ゆえ、誰もそのことをあえて口にしないだけなのだと。
きっとそのことを羨ましいとやっかむ心が、イザドラの目を曇らせていたのだろう。
(そう……そうだわ。だってパトリシアは、小さな頃から、蜥蜴や蛇が大嫌いだったじゃない……)
小さな頃、庭に現れた蛇に、物珍しさから手を伸ばしたパトリシア。しかし伸ばしたその手に蛇が巻き付いた時から、パトリシアは蛇を大の苦手としているのだ。それ以降、似ているという理由で蜥蜴や、果ては魚の鱗までもを嫌っている。
もしパトリシアにエセルバートの鱗が見えていたというのなら、いくら彼が美貌を持っていようと、パトリシアが彼を望むわけがないのだ。
「……見えていて、あの態度だったのだな」
そう、小さく言葉を落としたエセルバートは、見たことのない表情をしていた。戸惑っているような、何かを恐れているような、複雑な表情だ。
しかも頬に赤味が指している。
やはりまだ体調が思わしくないのだろうかと思いつつも、イザドラはエセルバートの発した「あの態度」という言葉に気を取られていた。
「あ、あの態度とは……」
もしや知らぬうちに無礼を働いてしてしまったのだろうかと、血の気が引いた。
(踊っていた時のこと? 私、ずっと顔を俯けていたわ。……その鱗を、怖がっていると思われた?)
もしそうだとしたら、それは間違いだ。むしろイザドラは、エセルバートの鱗を美しいとさえ感じている。だが、本当の理由を言うのも恥ずかしい。どうしたものかとは思ったが、まずは怖がっていたわけではないことだけでも伝えようと、イザドラは口を開いた。
「あ、あの、大公様……わ、私無礼を……」
「無礼? ……ああ。貴女は何も、無礼なことなどしていない。そういう意味で、言ったわけでは……」
言うや、なぜかエセルバートの顔に赤味が増した。
「大公様……やはり、体調が思わしくないのでは……」
「……いや、心配には及ばない」
「ですが、お顔が赤……」
赤くなっていると言おうとしたイザドラの言葉は、エセルバートによって遮られた。
「イザドラ嬢。貴女が見ているこの鱗は、普段は人の目に見えないよう、幻術がかけられている」
「……幻術?」
幻術とは、魔術の一種。
正体を知られたくない者が、目くらましのために己にかける術とされているが、その術を使える術者は、世界においても数える程しかいないとも聞いている。そもそもが、魔力を持ち魔術を使える者自体が、今では貴重な存在なのだ。
まさかその魔術を、しかも幻術を使える人間がこの国にいたとは。
その事実に些か興奮したイザドラは、不躾にもエセルバートに聞いていた。
「魔術を使える方が、この国にいたのですね……。あの、一体誰がその術を?」
「私が自分でかけた」
エセルバートの答えに、イザドラは息を呑んだ。
(大公様が、魔術師……)
「この鱗は、先祖が倒した竜の呪い。この呪いを受け継ぐ者は、同時に強い魔力をも継ぐことになる。竜すら倒した、先祖から引き継いだ魔力だ」




