008 それでも心配で
エセルバートの様子がおかしくなったのは、舞踏会も中盤に差し掛かった頃だった。
イザドラと踊ったあと、エセルバートは誰とも踊らず、国の重鎮たちとの会話に勤しんでいた。そんな中、何故かエセルバートは突然その重鎮たちとの会話を切り上げ、急ぎ足でその場を去ってしまったのだ。
一瞬だけ見えた横顔が真っ青だった気がして、イザドラはエセルバートの身が心配になった。
(ご気分を悪くなさったのかしら? それとも、お酒に酔ってしまわれたの?)
だが大公という身分のエセルバートが、体調を崩した際そのまま放っておかれるなどということはあり得ないだろう。もし今の彼が本当に気分を悪くしていたのだとしても、然るべき場所で、然るべき手当を受ける筈だ。
そう思っていたイザドラだったが、エセルバートは使用人の横でほんの僅かな時間足を止め、その際二言三言何事かを告げただけで、そのまま一人足早に舞踏会場を出て行ってしまった。
だが、そのことに驚いたのは一瞬のこと。すぐに使用人に助けを求めなかったのは、それ程切迫した状態ではなかったからだろうと思い至った。ならば、イザドラが追ったところでどうしようもない。
使用人でさえ、付き従うことを避けるくらいだ。二度会った程度のイザドラがあとを追ったとしても、彼を困らせるだけだろう。それどころか、エセルバートの後を追おうというイザドラの行動は、付き纏い行為に取られる恐れさえあった。
だが、先ほどのエセルバートの横顔を思い出す度に、イザドラの胸はざわついた。顔色が悪かっただけではない、イザドラには彼の表情が、今にも泣き出しそうなものに見えたからだ。
それが気分が悪くなったせいなのか、あるいは何か他の要因があったからなのかはわからない。けれど、あんな顔をしているエセルバートを、一人にしてはいけないと感じた。
だがそうは思えど、その想いだけでエセルバートを追いかける勇気も出なかった。
幾度も足を踏み出しかけ、また壁際に戻ることを繰り返していたイザドラは、ついに堪えきれなくなり、自らも舞踏会場を出ることを決心した。
だが、エセルバートを追うことにしたのではない。
この舞踏会を、途中退場することにしたのだ。
(もともと、早めに切り上げる予定だったのだもの。丁度良い頃合いよ。それに、これ以上ここにいては、大公様のことが気になってしまって仕方ないわ)
エセルバートは、大公であり、王弟だ。
そして、イザドラよりも年上の男性。
万が一あの場にいた重鎮たちとの間で何かがあったのだとしても、それこそイザドラの出る幕ではない。
もし気分が悪かったのだとしても、彼は一人で会場を去る前に、短いが使用人と会話をしている。彼が何処かで、一人倒れているなどという事態にはなり得ない。彼は、イザドラ如きが心配する必要はない人物なのだ。
(大公様は、今後もう二度とお会いしないかもしれないお方よ。今夜のことは良い思い出を頂いたと思って、もうあのお方のことは忘れましょう……)
イザドラは小さく呼吸を整えてから、会場内にいる城の使用人を呼び、両親への伝言を頼んだ。
疲れたから、早めに帰る旨。返りの馬車は、城から出ている馬車を借りる旨。
そして、自分のことは気にせず、ゆっくり楽しんで来て欲しいとの伝言を使用人に預け、イザドラは己の使用人が待つ、控室へと向かった。
使用人専用の控室へ行く、その途中。
中庭が見渡せる渡り廊下で、イザドラは遠く地面に蹲る銀色を発見した。
庭園に植えられている低木。その低木の根本から僅かにはみ出すように見える銀髪と、白いマント。月に照らされ輝くその色彩を見たイザドラは、足を止めた。
(あれは、まさか……大公様?)
まさか、とは思う。
よもや大公ともあろう者が、たった一人で地面に座っているわけがないと。
僅かながら、人気のない庭園で女性と逢引しているという可能性もあった。たが、舞踏会場での彼の女性に対する態度を見ている身としては、その可能性は考えづらい。
そして万が一、新鮮な空気を吸おうと庭に出た彼が、そこでさらに具合を悪くし、倒れているような事態にでもなっていたら――。
その考えに至った瞬間、気付けばイザドラは、庭園へ足を踏み入れていた。僅かに見える銀色に、慌てて走り寄ったイザドラが見つけたのは――顔を覆うようにして地面に座りこむ、エセルバートの姿だった。
「大公様……!」
「……来るな!」
強い拒絶の言葉に、イザドラの身体が、一瞬こわばった。
だが今のエセルバートは、見るからに体調が悪そうだ。拒絶されることを、躊躇している場合ではない。
「大公様。どうしてこのような場所におひとりで……。すぐに、人を呼んでまいります」
「……不要だ。少し休めば、すぐ楽になる」
「ですが……」
地面に腰を下ろしているエセルバートの顔色を見ようと、イザドラも腰をかがめた。
イザドラが急に近づいたことに驚いたのだろう、エセルバートが身じろぎした拍子に、顔を覆う手がわずかに空に浮き、隙間ができた。手の隙間から見えたエセルバートの顔色は、思っていた通り真っ青だ。
(ああ、やっぱり……。顔色が悪いわ)
「大公様。やはり、顔色が優れません。医師をお呼びいたします」
イザドラが立ち上がり、踵を返そうとしたその時――手をつかまれた。
何事かと振り返りエセルバートを見れば、彼は茫然といった体でイザドラを見上げている。そしてしばらくたち、ようやく声を出したと思ったら、その声は震えていた。
「……君には、見えて、いないのか?」
「え? あの……何が、でしょうか」
問い返せば、エセルバートはなぜか困惑したような表情を見せた。
「まさか……幻術は解けていないのか? 見えているのは、私だけ?」
己の手を見ながらぶつぶつと独り言を言っているエセルバートを見て、今度はイザドラが顔色を悪くした。
(これは、まずいのでは……)
もしかしたら今の彼には、何かしらの幻覚が見えている恐れがある。
これは急がなければと思ったイザドラは、自分が医師を呼んでくるよりは、近くを巡回しているであろう衛兵を呼んだ方が早いのではないかと思い直した。
「大公様。少々こちらでお待ちください。急ぎ衛兵を呼んできます」
「待て……! イザドラ嬢……」
城へと向かい一歩足を繰り出したイザドラの耳に、聞きなれた声が聞こえてきた。
「大公様~! どちらに行ってしまわれたの~?」
(……パトリシア?)
見れば、パトリシアが何かを探しながら、こちらに向かって歩いてくる。
すると、すぐにイザドラに気付いたパトリシアが、眉をひそめた。やはり先ほどイザドラがエセルバートと踊ったため、怒っているようだ。
(踊っている最中、こっちを睨んでいたものね……)
「お姉様……。大公様を見なかったかしら?」
いつもより幾分低めの声で、パトリシアが聞いてきた。
イザドラのことは気に食わないながらも、無視をするほどではないらしい。
「大公様なら……」
イザドラは背後を振り返ることで、そこに探している人物がいることを示した。
エセルバートは、いつの間にか立ち上がっている。顔色も、先ほどよりは随分と良くなっていた。これなら衛兵を呼ぶ必要はないかもしれないと思い、イザドラはほっと息を吐きだした。
「こんなところにいらしたのね、大公様!」
喜色の籠った声を上げながら、イザドラの脇を小走りで駆け抜け、パトリシアがエセルバートに駆け寄った。
けれど、パトリシアがエセルバートの目の前に立った次の瞬間。イザドラの耳に届いたパトリシアの声は、嬌声ではなく悲鳴だった。




