006 差し出された手
イザドラが見ている最中、膠着状態だったエセルバートと令嬢たちの間に、動きがあった。
エセルバートが令嬢たちに向けて何かを言い、その途端、彼を取り囲んでいた令嬢たちが、彼の前から両横へと退いた。彼女たちの行動に伴い空いた道を、エセルバートが歩み出す。
遠のくエセルバートの背中を、令嬢たちが残念そうに見送っている。だがここまで無関心を通されれば、彼女たちも引き下がるしかないだろう。
(大公様のあの様子じゃあ、今回ばかりはパトリシアの出番もないかもしれないわね)
イザドラが隣にいる筈の妹に視線を向けると、すでに本人の姿はそこにはなかった。
(……え? どこに行ったの、あの子)
パトリシアが気まぐれなのはいつものことだが、それでも今のような状況で、イザドラに何も言わずにいなくなるのはおかしい。
まさか、と若干嫌な予感を覚えたイザドラは、いなくなったパトリシアの姿を探した。探し出してからほどなくして、今日のパトリシアの装いである、ゆるく纏めた髪に淡い水色のドレスを見つけたイザドラは、パトリシアのいる場所を見て目を見開いた。
(ああ、やっぱり……なんて素早いの)
パトリシアはイザドラが目を離した一瞬の間に、令嬢たちから逃れたエセルバートのすぐ傍まで、近づいていたのだ。パトリシアはエセルバートの歩む前方、少しだけ離れた位置で佇んでいる。彼が近づいてくるのを、待っているのだろう。
その佇まいはなんとも可憐だが、中身は肉食獣であることを、イザドラは知っている。
だが、そこまで積極的に動いたパトリシアも、やはりエセルバートの目には入らなかったらしい。けれどエセルバートがそのままパトリシアの横を通り過ぎようとした瞬間、予想だにしていなかったことが起こった。
「きゃっ……!」
小さな悲鳴を上げながら、パトリシアが突然、エセルバートの前に躍り出たのだ。
(ちょ……! パトリシア……何をやっているの!)
パトリシアは、何もないところで躓いた。わざと転んだのだ。イザドラはずっとパトリシアを見ていたのだから、間違いない。
よもや妹がここまでするとは思わず、パトリシアは顔色を悪くした。
町の平民の娘が、同じく町の男にぶつかるならば良い。偶然の悪戯により、そこで恋愛に発展する可能性もあるだろう。だが、相手は王族。万が一転んだ先でエセルバートに怪我でも負わせようものなら、とんでもないことになってしまう。
イザドラは慌てて、パトリシアとエセルバートのいる場所へと向かった。パトリシアが決定的な何かを仕出かさないうちに、エセルバートから引き離そうと思ったのだ。
人の波をかき分け二人の元へ到達したイザドラだったが、そこで見たエセルバートの表情に、思わず息を呑んだ。目の前に転がり出たパトリシアを見つめるエセルバートは、とても冷たい表情をしていたからだ。
だがその表情とは裏腹に、彼の口から出てきたのは、パトリシアを案ずる言葉だった。
「……大丈夫か?」
「申し訳ありません……私……」
言いながら、足首辺りを、パトリシアがドレスの上から手で押えた。それから顔を上向け、エセルバートを見つめている。
か弱い(振りをしているとしても)令嬢に目の前でそこまでされては、さすがに男性としては無下にするわけにはいかなかったのだろう。嫌々ながらやっているとはっきりとわかる表情で、エセルバートがパトリシアを助け起こそうと手を伸ばした。その手を取りつつ、パトリシアはぽうっとエセルバートに見惚れている。
(相当気に入ったのね、大公様のこと。……でも、やりすぎよ)
イザドラはエセルバートの傍に控えている男性の幾人かが、パトリシアが前に出た瞬間、素早く動いたのを確認していた。きっと、招待客に扮した護衛なのだろう。
衛兵もいるにはいるが、皆エセルバートからは距離をとって控えている。あちらの彼らは、あからさまに怪しい者たちを警戒するのが役目なのだろう。
「ご無礼をお許しください、大公様。私……躓いてしまって……」
そう言いながらエセルバートを見上げるパトリシアに、イザドラは小さく溜息を吐いた。パトリシアはその儚気で大人し気な印象を覆し、かなり積極的なのだ。たとえ釣れない態度の大公相手にも、諦める気は微塵もなかったらしい。
「あの、大公様。ダンスのお相手をしてくださいますか……?」
群青色の瞳を潤ませ、パトリシアがエセルバートを見つめている。
エセルバートはきっと、パトリシアの申し出を受けるだろうとイザドラは思っていた。婚約には意欲的でないにしても、可憐な令嬢と一曲ダンスを踊る程度なら、彼も断りはしないだろうと。
だが驚いたことに、彼は眉をひそめたあと、たった一言「申し訳ないが……」と言っただけで、パトリシアの前から去ろうとした。
「た、大公様……⁉ お待ちください! お願いです。一度だけで良いのです。私と踊ってくださいませ」
断られてもなお、追いすがろうとするパトリシアを一瞥したエセルバートは、そのまま周囲を見回した。
彷徨っていた彼の視線は、なぜかイザドラと視線が合った途端、その動きを止めた。それから再びパトリシアを見つめ、その美しい唇を開いた。
「わかってほしい、パトリシア嬢。私は一度君の姉上と婚約を結びかけている。それからいくらも時の過ぎぬうちに、すぐに妹である君とダンスを踊るわけにはいかないのだ」
言い訳にされたのだと、すぐにわかった。
エセルバートに婚約話があったことも、その相手がイザドラであったことも、知っている者たちは、数える程しかいない。
だが、それも今の彼の言葉で、周囲の知るところとなってしまった。少なくとも、彼らの近くで聞き耳を立てていた者たちには、間違い無く聞こえている筈だ。
(縁談が十一回も流れてしまったことが、知られてしまったわね)
イザドラがこれまでに十回婚約の打診を断られたことは、知る人ぞ知っていることだ。今のエセルバートの言葉は、きっと、社交界の良い話題となることだろう。
「……ですが、大公様は先ほどから、誰とも踊っておりませんわ」
小さく落とされたパトリシアの言葉に、エセルバートが眉間に皺を刻んだ。
(こういう時は、頭が回るのよね……)
陛下がわざわざ招待状にエセルバートが来るという旨を記したのに、今日の舞踏会の目玉となる当の本人は、一度としてダンスを踊らない。それでは、陛下の面目が丸つぶれだろう。
「……そうだな。では、兄の顔を立てるためにも、一曲くらいは踊ることにしよう」
エセルバートのその言葉に、パトリシアの表情が輝いた。だが彼は、そんなパトリシアを置き去りに、歩き出す。
「え、大公様……!?」
言動が伴わないエセルバートに対し、パトリシアも驚いていたが、イザドラも驚いていた。パトリシアの呼び声を無視したエセルバートが、どんどんとイザドラに近づいて来たからだ。
そしてついに、エセルバートはイザドラの目の前で歩みを止めてしまった。
目の前に差し出された、大きな手。その手を見つめ、イザドラは目を瞬かせた。もしやと思い、今度はエセルバートの顔を見つめれば、その美しい唇からは思っていた通りの言葉が放たれた。
「イザドラ嬢。私と一曲、踊ってくれないだろうか」




