003 婚約話はなかったことに
大公との婚約を受けた数日後、アドコック侯爵家の面々は大公低の晩餐会へと招待された。
目の前の豪勢な食事に、イザドラはこれから行われる顔合わせのことを、一瞬だけ忘れてしまっていた。
さすがは大公家。イザドラも幾度か他家の晩餐会に出たことがあったが、出て来た料理は、ここまで贅を凝らしたものではなかった。
この豪勢な料理の数々には、隣に座るパトリシアも目を瞠っている。
「ねえ、お姉様。大公様って、どのような方なのかしら? どちらの噂が真実だと思う?」
わずかにイザドラ側に身を寄せて、パトリシアが囁いた。
「パトリシア。口を慎みなさい」
気になるというその気持ちは分かるが、ここでその話題を出すのは宜しくない。きっと今のパトリシアの言葉も、傍に立つ使用人に聞かれていることだろう。
イザドラが窘めれば、パトリシアが「やだ、怖い」と言いながら、イザドラからその身を遠ざけた。その態度に腹は立ったが、大人しくなったのだから、まあ良しとする。
しかしパトリシアの言葉のせいで、これから行う初顔合わせのこと、そして大公の噂についてを思い出してしまった。
(とんでもない醜男か、とんでもない美男か……)
できれば前者であれば良いと、イザドラは考えていた。
別に、醜い男が好みなわけではない。だが容姿が醜いとあらば、その自信のなさから、イザドラでも我慢してくれるのではないかと考えたからだ。下手に容姿が優れていると、やはりイザドラではなくパトリシアが良いなどと言いだしかねないと。
(でも……例え醜男だとしても、大公様は陛下の弟君……。権力を笠に、パトリシアを望むかもしれないわ)
イザドラが、そのように後ろ向きに考えていた時だった。
天上まで届きそうな大きな扉が使用人によって開かれ、一人の男性が入ってきた。その男性を見て、イザドラも驚いたが、両親も、そしてパトリシアも驚いている。
「うそ……」
小さく呟かれたパトリシアの言葉には、吐息が混じっていた。
その男性は輝く白銀の髪に黄金の瞳の、それは美しい男性だった。
だが――。
(この人が、大公エセルバート・シェリダン様……。あの噂って、もしやアレが原因で……?)
エセルバートは大層美しい顔をしていたが、顔の左側、額から頬にかけての大部分に、青痣が広がっていた。その痣は、はっきりとした濃い青色ではなかったが、肌とは明らかに色が異なっている。
美しさを尊ぶ貴族、特に高位貴族たちは、顔の痣や傷跡を嫌う傾向にある。その基準になぞらえば、エセルバートの容姿は、正に醜男ということになってしまうのだろう。
だが、例え痣があったとしても、彼の美しさは抜きんでている。
(大公様に関する、あの噂……。どちらも真実だったのね)
呪われている、などという噂もあるにはあったが、そもそもがその噂自体、嘘か真かわからぬ王家に関する伝承を元にしたもの。そちらはどうも、眉唾な噂だったのだろう。
「呼び出しておきながら、遅れて申し訳ない」
エセルバートに見蕩れていたイザドラは、気にしていないことが伝わるようにと慌ててエセルバートに向けて微笑んだ。
(声も、美しい人なのね……)
エセルバートの声は、とても耳に心地よい。いつまでも聞いていたくなるような、低音だ。
それからすぐに始まった、たった五人だけの晩餐会は、どことなく重たい雰囲気の中進むことになる。
そして、その空間に身を置いたイザドラは、なんとなくだったが、エセルバートはこの婚約を歓迎していないのではないかと感じた。
これまで十回も、婚約の打診を断られてきたのだ。悲しいかな、イザドラは婚約を断られる時の雰囲気というものが、分かるようになってしまった。
(でも、今回は相手からの打診なのに……?)
イザドラがそう思っていたところ、おもむろにエセルバートが口を開いた。
「侯爵。どうだろう。料理は楽しんでもらえただろうか?」
「勿論です。いや、大変素晴らしい料理ですな」
ブライアンの賛辞に、エセルバートがふっと笑いを落とした。
「詫びとして、用意したものだ。どうぞ心ゆくまで堪能してくれ」
その言葉が放たれた瞬間、その場が静まり返った。使用人が給仕する音だけが、控えめに部屋に響いている。
静寂の中、最初に口を開いたのはブライアンだった。
「詫び……などと……。大公閣下と縁を結べることは、大変光栄なことで……」
「そうではない。いや。当然、兄がそちらに無理強いしたことについての詫びもある。だが、私の言う詫びとは、私にはこの婚約を受け入れるつもりがないということについてだ」
(やっぱり……)
やはり、ここでもイザドラが歓迎されることはなかった。おそらくエセルバートは、相手がイザドラであることが、気に喰わないのだろう。
いくら痣があるとはいえ、彼の美しさは周囲からは抜きんでている。この美しさならば、妖精の如きパトリシアを望むことだって、決して無謀なことではない。
その証拠に、パトリシアとてエセルバートの姿を一目見た時きから、うっとりとした眼差しを彼に向け続けているのだ。
(もしここで、相手を私からパトリシアに変えると言ったら……そしたら、大公様はこの婚約を受け入れるのかしら……)
そう考えた途端、胸にドス黒い何かが湧いてきた。そちらから姉妹のどちらでも良いと婚約を申し込んだ癖に、実際に顔を合わせる段階になって、やはりもう一人の方が良いと言うなんてと。
「……何か、お気に召さないことが?」
僅かながらの怒気の籠ったブライアンの声に、イザドラはぎょっとすると同時に、嬉しさも感じた。ブライアンは、きっとイザドラのために怒ってくれているのだろう。
(お父様はいつも、怒ってくれていたわ)
イザドラが、心無い言葉をかけられる度、そして婚約の打診を断られる度に、ブライアンは怒っていた。そして、すまないと言って謝るのだ。
だがイザベラとしては、謝られるのも困ってしまう。イザドラが嫌われることも、婚約を断られ続けていることも、ブライアンのせいではないのだから。
「そうではない。私は結婚などするつもりはないと常から言い続けているのに、兄が聞き分けないだけだ」
優雅な仕草で食事を取りながら、エセルバートが言った。ようするに、今回のことは兄である王が勝手にやったことである。彼は、そう言いたいのだろう。
「振り回される形となってしまった其方たちには、誠に申し訳ないと思っている。そのための、詫びとしての晩餐会だ。兄には私から、もう二度とこのような勝手な真似はしないよう、きつく言っておこう」
こう言われてしまえば、アドコック家からは、もうそれ以上何かを言うことはできなくなってしまう。
彼は、非は自分たちにあると認めている。これ以上の追及は無意味であるし、大公という身分の彼がここまで言っているのだ。これ以上の責めは、無礼に当たる。実際彼は、大公であり王弟という、たいていの我儘は許される身分なのだから。
それに、おそらくだったが――。
(大公様……怒っていらっしゃる)
口調にも態度にも、怒りの片鱗は見えていない。
だが、こうして静かに語る彼自身が、静かな怒りの気配を纏っているのだ。
その怒りの矛先は、アドコック家ではない。だがおそらく、兄である陛下に対するものでもないだろう。
何に対するでもない、漠然とした怒り。それがわかったのは、おそらくだが、イザドラも同じ怒りを抱えていたからだ。
そして、ここまでエセルバートが婚約を忌避するのは、きっとその怒りの原因が関係しているのだと感じた。
その怒りの原因として、真っ先に思い浮かぶのは、痣だろう。
確かにエセルバートには、貴族間では忌避されるような痣がある。その痣は顔だけではない。食事の際に気付いたが、彼はその手の甲にも、痣を持っている。
たがその痣とて、彼の魅力を削ぐようなものではない。それはパトリシアの反応からも、よくわる。
きっと他の者にしても、パトリシアと同じ反応をする筈だ。
だから、イザドラが感じている怒りとエセルバートの感じている怒りは、必ずしも同じものとは限らない。
エセルバートの感じている怒りの原因は、イザドラにはわからない。けれど、ひとつだけわかったことがある。
(今まで大公様の婚約が成立しなかったのは、大公様自身が、婚約を望んでいなかったからなのだわ)
呪われているという噂のせいでも、イザドラのように、相手に断られてきたからでもなかったのだ。




