020 番外編 呪われ大公は、黒薔薇に囚われる 4
イザドラとのやり取りのあと、満面の笑みのパトリシアが、エセルバートに駆け寄ってきた。
けれど、彼女はエセルバートの正面まで来ると、途端に顔を歪め悲鳴を上げた。
「嫌ぁ!」
舞踏会場ではあれほどエセルバートに秋波を送っていたというのに、今は化け物を目にしたかのような変わり様だ。
そのパトリシアの様子を見たエセルバートは、やはり、すでに幻術は解けていたのだということを確信した。だがそれならば何故、イザドラはエセルバートの真の姿を見ても、態度が変わらなかったのか。
今もイザドラは、エセルバートを怖がっているパトリシアに対し、わけがわからないといった表情で驚いている。
怯える妹に向かって、イザドラの手が伸ばされる。その手が目的のものに届く前に、エセルバートは声を発した。
「パトリシア・アドコック」
エセルバートの呼びかけに対し、小さな悲鳴が上がった。その怯えを無視し、エセルバートは言葉を続けた。
「王弟として命じる。ここで見たことは他言無用だ」
聴いているのかいないのか、返事のないパトリシアに対し、エセルバートは重ねて命じた。それでようやく彼女は理解したらしい。足早に去っていくパトリシアには、もう用はない。今、エセルバートの心を占めているのは、イザドラに対する疑念だけだ。
「イザドラ嬢」
意を決して彼女の名を呼べば、妹の無礼を詫びる言葉だけが返ってきた。
「……貴女は、私が怖くないのか。いや……見えていないのか?」
何らかの理由で、彼女の目にはエセルバートの真の姿が映っていないのか。そうであれば、ここまで彼女が平然としている理由にもなる。
「……先ほどもそのようにおっしゃいましたが、私の目には、何も見えません。初めてお会いした時からの、変わらぬお姿しか……」
「初めて会った時から……」
イザドラのその言葉に、エセルバートは引っかかるものがあった。
初めて彼女に会った晩餐会では、彼女は普通の態度に見えた。ほかの侯爵家の者たちと同じく、驚いたようにエセルバートを見つめていた。普段顔を会わせる使用人たちからは、よくそのような感嘆の表情で見られていたため、その時は特に気にも留めなかった。
そして、次に彼女と顔を合わせたのが、今日のこと。
踊っている最中、エセルバートの言葉に反応し顔を上げた彼女は、わずかに目を見開いていた。だがその表情には嫌悪が混じっていなかったため、エセルバートはその反応の意味するところを、見過ごしてしまったのだ。
「イザドラ嬢。貴女の目に、私の姿はどう映っている?」
「え? 大公様のお姿ですか?」
イザドラの反応からは、本当にエセルバートの真の姿が見えているのか否かの、判別は付きづらい。ならば、本人に直接聞いた方が早いだろう。
「遠慮せずに言ってほしい。何を口にしても、私がそのことを問題にすることはない」
一旦は躊躇して見せた彼女だったが、エセルバートの強い視線を受け、おずおずと言葉を紡ぎ出した。
「……眩い銀の御髪に、金色の瞳。美しい顔に、それから……」
そこで再び、言葉が止まる。
だが、エセルバートはそこでイザドラが言葉を止めることを許さなかった。この時のエセルバートは、イザドラに対し、期待のような想いを持っていたのだ。
「それから?」
先を促せば、半ば考えていた通りの言葉が、彼女の口から返ってきた。
「……整ったそのお顔に、大きな青痣に見える、鱗をお持ちです」
その言葉を聞いた瞬間、エセルバートの世界が大きく変化した。
彼女は知っていた。彼女には、この鱗が見えていた。
それでも彼女は、正面からエセルバートに微笑みを与え、そしてエセルバートの些細な言葉で、あのように顔を赤らめたのだ。
その事実を認識した瞬間、イザドラに対し、自分でも驚くほどの執着心が湧いてきた。まだ出会ってそれ程月日も経っていないというのに、まるで長年の片恋の相手であるかのように、目の前にいる彼女の姿が眩しく見えて仕方ない。
もっと、彼女の笑顔が見たい。
エセルバートの言葉で、恥じらう姿を見たい。
こちらから婚約を断っておきながら、都合の良いことを望んでいる自覚はある。
だが望んでしまうこと自体は、仕方のないことだろう。なにしろ彼女は生まれて初めて、兄以外でエセルバートのすべてを受け入れてくれた、稀有な存在なのだから。
気付けばエセルバートは、イザドラにすべてを語っていた。これまで誰にも語ったことのない、心の内を晒していた。
この身に受けた呪いのこと。幻術のこと。
母に対する負い目。自分に対する怒り。
鱗に触れられ、優しく抱きしめられた時にはすでに、これまでずっとエセルバートの心にあった空虚な穴は、イザドラという存在で満たされてしまっていた。
✛✛✛✛✛
イザドラを侯爵邸まで送り届けたあと、エセルバートは城へと戻り、一度は断ったアドコック家との縁談を再び結びなおしたいと、急ぎ兄に報告をした。
報告を聞いた兄が、驚いたあとすぐに嬉しそうに頬を緩めた姿に、エセルバートはなんとも言えない面映ゆい気持ちになった。
アドコック侯爵宛に、前回の晩餐会についての詫びと、再びイザドラと縁を結びなおしたいとの願いを込めた文を認めた。それと同時に、イザドラ個人宛に文を一通。
何度も書き直されたその文は、最終的には、渡すことを諦めた。封書に入れたのは、色気のない招待状のカードのみ。それでも侯爵宛の封書との違いを出すために、エセルバートは急ぎ薔薇の花を模した封蝋印を作らせた。
十日ほどかかって完成したその印を、黒い蝋の上に押す。出来上がった黒薔薇の封蝋を見た時には、思わず口元を緩ませていた。
凛として艶やかな、気高き一本の黒い薔薇。黒い薔薇は言わずもがな、イザドラを表している。そのことに、彼女は気づくだろうか。そんな小さな期待と不安が、エセルバートの胸を熱く焦がした。
誰かを恋しいと、愛しいと思ったのは初めての経験だった。
エセルバートはこれまで、恋を経験したことがない。
誰かの微笑みに、言動に、そしてそれらを想像するだけの行為で胸をときめかせることなど、今まで一度も経験したことがない。
ほとんどの者が経験するだろう、恋愛というある種の通過儀礼。
これまでのエセルバートは、その扉の入り口にさえ立てなかったのだ。
本当の自分が誰かに受け入れられることは、決してない。
そうかたくなに信じていたエセルバートにとって、恋を楽しむ相手も、愛を捧げる相手も、幻のように遠いものだったからだ。
けれど今の自分は、イザドラに恋をしている。
まだ出会ったばかりの、一度は無礼を働いてしまった相手であるイザドラに。
己を落ち着かせようと、エセルバートは一度ゆっくりと息を吐きだした。そして椅子から立ち上がり部屋を出て、一人の使用人を捉まえ、二通の封書を手渡す。
「これをアドコック侯爵邸に、急ぎ持って行ってくれ」
かしこまりましたとの使用人の返事を聞いてすぐ、今度は別の使用人を捉まえた。
「国中の花を扱う商会に、黒い薔薇を取り扱っているかどうかの確認を頼む」
「黒い薔薇……ですか?」
「そうだ」
黒い薔薇と聞いた直後は難しい表情を見せたその使用人も、エセルバートの淀みない肯定の言葉を聞き、了承の返事をしてからすぐに邸から出て行った。
封書は託したし、黒い薔薇に関しては、なければ他の花で代用すれば良い。
あとは、侯爵家からの返事を待つのみである。
だがもし、侯爵から、そしてイザドラから断られたら――。
そう考えると、途端に胸のあたりが重くなる。
けれどすぐにエセルバートの脳裏に、あの舞踏会の日、エセルバートの言葉に顔を赤らめたイザドラの姿が思い起こされた。
あの日のイザドラとのやりとりの思い出は、エセルバートの心を奮い立たせてくれた。そして、楽な道に逃げそうになる己を、押し留めてくれた。
たとえ彼女に拒絶されたとしても、エセルバートはイザドラの意志を押さえ込み、自らの望みのままに彼女を奪うこともできる。
それができるだけの地位も、身分も、エセルバートは持っているのだ。
だが、彼女相手にそんなことはしたくない。己を選べと、王弟として命令を下すようなことはしたくない。兄には報告こそしたが、侯爵相手に何の圧力も加えぬよう、そこは厳重に言ってある。
そもそもが、愛しい人の想いを手に入れるためには、大公という地位も王弟という身分も何の役にも立ちはしない。そのことを今、エセルバートは痛いほどに感じていた。
✛✛✛✛✛
イザドラと想いが通じ合った、その夜。
エセルバートは城へと兄を訪ねていた。
急な謁見ではあったが、兄は快くエセルバートの訪問を受け入れてくれた。
「兄上には、感謝しております」
エセルバートの言葉を聞き、兄のイデオンが僅かに目を見開いた。思えば、エセルバートがこうして兄のお節介に対し、素直に礼を言ったのははじめてのことではないだろうか。そのことに思い至り、エセルバートは己の不徳を申し訳なく思った。
「彼女を私に会わせてくださったのは、私と彼女が、似ていたからなのですね」
エセルバートとイザドラは、似た者同士だ。だからこそ、互いの痛みを理解できる。
手に持っていたワインを傾け、対面の兄が微かに口元を綻ばせた。
「……そうだな。たとえ婚約までには至らずとも、友人にはなれるのではないかと思ってな」
「友人、ですか」
「必要だろう? 友人も、新しい家族も。私は、お前より先に逝くのだから」
兄の言葉を聞いたエセルバートは、ぽかんと口を開けた。
「何を……おっしゃっているのですか。私と兄上は、そう歳の差があるわけではありません」
「順当にいけば、私が先に逝く。それにな、王とは意外と激務なのだ。……ああ、別に身体の調子が悪いわけではない。そんな顔をするな」
よもや兄は病でも患っているのかと考え青ざめたが、すぐにエセルバートの心情を察した兄から否定された。
そして兄がいなくなるということを、おそらくははじめて現実のものとして想像したエセルバートは、ようやく兄の心配が理解できた気がした。
これまで兄は、エセルバートが唯一心を開く相手だった。
その兄がいなくなったら、エセルバートは一人になってしまう。
兄の子どもたち――エセルバートにとっての甥姪たちのことは愛しているし、彼らもエセルバートのことを慕ってくれている。だが彼らとの間にさえ、エセルバートは常に見えない壁を感じていた。この鱗を見せたことだって、これまで一度もない。
「兄上……これまで、ご心配をおかけしました」
心からの感謝を込め、エセルバートは頭を下げた。
孤独な弟のことを、激務に身を投じる中、どれだけ案じてくれていたのか。そのことを考えると、嬉しさと同時に、申し訳ないという気持ちが湧いてくる。
「……エセルバート。お前たちの婚約を、心より祝福しよう」
兄から祝いの言葉をかけられたエセルバートは、涙の滲む瞳を隠すため、しばらくの間顔を上げることができなかった。




