019 番外編 呪われ大公は、黒薔薇に囚われる 3
こうして女性と踊るのは、何年ぶりのことだろうか。
手袋をしているため、伝わってくる柔らかな感触は布越しのものだ。だが、久しぶりに人の温もりに触れたエセルバートは、何故か泣きたいような気持ちになった。
しかも目の前の相手に集中して踊っているため、この会場に入った時から鬱陶しく感じていた人の目も、今はさほど気にならない。
とても、不思議な感覚だった。自分が呪われているという現実も、これまで人を避けてきたという事実も、こうしてイザドラと踊っていると、ただの夢だったのではないかと錯覚してしまう。
だがダンスの相手であるイザドラは、ダンスの誘いこそ受けてくれたが、その後一言も発していない。もしや嫌だったのだろうかと、その可能性に思い至った瞬間、エセルバートはイザドラに向けて謝っていた。
「……すまないな。だが、今宵は君と踊るのが最善だと思った」
多分に言い訳めいた言葉を告げた直後、慌てたようにイザドラが顔を上げた。そしてそのまま視線を止め、エセルバートと視線を合わせてきた。
わずかに見開かれた黒色の瞳には、エセルバートの顔が映りこんでいる。その顔に広がる青痣の如き鱗を見て、エセルバートは一瞬息を呑んだ。
いつもながら、この瞬間だけは慣れることはない。
幻術で隠しているこの鱗も、何らかの物体に反射したものを見た場合、真実の姿が現れてしまう。このこともあって、エセルバートはあまり人前に姿を出すことを避けてきたのだ。
いくら幻術で自身の鱗を隠したとしても、エセルバートの嘘を暴く切欠は、至るところに転がっている。グラスや宝飾品、あるいは、今目の前にある彼女の瞳。
こうして彼女の瞳に鱗を持つ己の顔が映っていても、幻術が解かれたわけではない。だが、そうとわかっていても、心臓に悪い。
イザドラの態度も、もしやこの痣が見えているのではないかと勘繰ってしまう要因となっている。先ほどから彼女は、どこか惚けたようにエセルバートの顔に見入っていたからだ。
だが彼女の視線からは、エセルバートに対する欲というものを感じない。ただただ純粋な、まるで視る物すべてを真新しいと感じているような、幼子の如き視線だ。
「大丈夫か? イザドラ嬢。気が散漫しているようだが」
エセルバートが問えば、イザドラからは踊りなれていないからだとの回答が返ってきた。その回答に、エセルバートは納得した。おそらくは彼女もエセルバートと同様、他者の目を気にして生きてきた筈だ。ならばこういった人が大勢集まるような場所は、避けてきた可能性がある。
「私もだ」
まるでそのことを恥じ入っているかのような彼女を擁護しようと、エセルバートも正直に告げてみたのだが、彼女からは「お上手です」との言葉が返ってきた。
王弟という立場故、普段踊ることが無くとも、エセルバートは完璧にダンスを習得している。長年、無駄だと思いつつも練習を続けてきた甲斐があったというものだった。
エセルバートを見つめるイザドラの視線は、とても心地よいものだった。黒い瞳は濡れたように煌めき、自らを照らす光をそのまま周囲へと返している。
とても、この瞳を不吉とは思えない。何よりも、この瞳を持つイザドラの表情は穏やかで、聡明さに満ちている。そのため、エセルバートはつい何も考えずに、瞳のことを話題に出してしまった。
「貴女のその瞳……」
しかし、エセルバートがその言葉を口にした瞬間、イザドラの表情が目に見えて強張った。
その何かを身構えるような様子に、エセルバート自身の姿が重なった。彼女は、エセルバートからの拒絶の言葉を恐れている。
「……黒髪は稀に見るが、漆黒の瞳とは珍しい。確か……南方の民族が、黒髪に黒い瞳を持っていたように思うが」
無難な言葉を続ければ、ようやくイザドラの表情が和らいだ。
その表情の変化を見たエセルバートの胸に、形容しがたい思いが湧き上がってきた。彼女を慰めたいという思いと、けれど自分にはその資格がないという、落胆に似た思い。そのような思いを抱いた己に、エセルバートは驚いた。
彼女とは結ばれなかったとはいえ、僅かながらも縁を持つことになった。さらにはこうして共に踊ったことで、些かの情が湧いたのだろうかと。
今日のエセルバートは、普段のエセルバートが考えもしないようなことばかりを考えている。その証拠に、気付けばエセルバートの唇は、イザドラの瞳を褒めるような言葉を紡いでいた。
まるで、野生の鹿の瞳のようだとは。言葉にした瞬間我ながら下手な褒め方だと思ったのだが、イザドラにとっては、十分に効果はあったらしい。イザドラは一瞬惚けた表情をしたあと、すぐに顔を赤らめ俯いてしまった。随分と純情な反応だ。
耳まで真っ赤に染め上げたイザドラの姿を見つめ、エセルバートは微かに笑みを零した。
イザドラのことを、好ましく思ったということもある。だがそれよりも、まるで普通の男女の駆け引きのような言動を取っている己を、エセルバートは自嘲したのだ。
曲が終わり、イザドラの手が離れていく。
今後、彼女とはもう会うこともないだろう。その事実が、わずかにエセルバートの心を重くした。
✛✛✛✛✛
イザドラと一曲踊ったことで、兄の面目を保つことはできたし、あとはどうとでもダンスの誘いを断ることができる。そう思えば、随分と気が楽になった。
早々に踊ることを切り上げたエセルバートが兄の重鎮たちと会話をしていると、一人の男が声をかけてきた。
「これは大公閣下。閣下がこのような場に出席なさるとは珍しい」
恰幅が良く、人好きのする笑顔。男は、外交を担う役職に就いている者だ。過去に出席した数少ない会議で、エセルバートはこの男に会っていたことを思い出した。
己に向かって差し出された手を握った瞬間、痺れるような衝撃が手に伝わった。一瞬だけ掌に何か毒でも仕込まれていたのかと疑ったが、すぐにこれはそうではないと気が付いた。念のため男の表情を探っても何ら変化はない。
「閣下? どうなされました。顔色が優れませんが……」
心配そうにこちらを窺う様子にも、怪しいところはない。
「……すまないが、少々酒を飲み過ぎたようだ。失礼する」
驚く男に構わず背を向け、エセルバートは傍に控えていた侍従の元へと急いだ。
「幻術が解けそうだ。しばらく一人になるが、心配しなくていい」
小声で告げれば「後はお任せください」との言葉が返ってきた。
使用人に正体を見せたことはないが、普段から幻術を使っていることは言ってある。そうでなければ、こういう時に余計な心配をかけることになるからだ。
最初はどこかの部屋で休もうかとも思ったが、一目を避けるならば外の暗がりの方がいざという時に姿を隠せるとふみ、庭園に出ることにした。
エセルバートの身体ごと覆い隠せそうな木立を見つけ、身を隠す。そのまま力なく地面に座り込み、手袋を外した。思った通り、すでに幻術は解けている。
だが幻術が完全に破られるまでは少々の時間があったし、とっさに顔を背けたので、舞踏会場を出るまではこの姿を誰にも見られてはいない筈だ。
おそらく先ほどの男が持っていたのは、魔除けの品。己にかけられる魔術を、跳ね返す類のものだろう。
その魔除けの品が、姿を偽る幻術をかけているエセルバートに、反応したのだ。
外交を担う彼は、仕事で他国に行くことも多いだろう。自身をあらゆる脅威から護るため、ああいった品を持つに至ったのだろうとはすぐに想像がついた。
「……情けない」
正体を見破られないためとはいえ、こういう時、その場から逃げるしかできない己が何とももどかしい。しかも逃げる言い訳が酒を飲み過ぎたとは、これでは己の限界すら見極めることのできぬ若造ではないか。
思わず両手で顔を覆えば、人の皮膚と、それよりも弾力のある、冷たいそれが指先に触れた。その不快ながらも手に馴染んだ感触が、さらに苛立ちを募らせる。いっそこの鱗を剝いでしまえたらと、エセルバートは皮膚に自らの爪を突き立てた。
何者かの立てる足音に気付いたのは、荒ぶる感情をどうにか収めた時だった。
そのどこか慌てた様子の足音は、すでに間近に迫っている。これでは逃げる間がないと、エセルバートが肝を冷やしたその時――。
「大公様……!」
耳に届いた澄んだ声音に、気付けばエセルバートは、その声の主に対し拒絶の言葉を放っていた。
「……来るな!」
もし、彼女にこの鱗を見られでもしたら。
もし、この姿を見た彼女の顔が、歪みでもしたら――。
その時自分は、どうなってしまうかわからない。その瞬間のことを考えたエセルバートは、例えようもない恐怖を感じた。
「……大公様。どうしてこのような場所におひとりで……。すぐに、人を呼んでまいります」
強い拒絶の言葉をかけられたにも関わらず、イザドラはエセルバートの身を案じてくれた。その心遣いはありがたいが、今人を呼ばれてはまずい。
「……不要だ。少し休めば、すぐ楽になる」
「ですが……」
突然近づいた気配に、エセルバートは咄嗟に顔を覆っていた手を浮かせてしまった。指の隙間から見えた黒い瞳に、エセルバートの心臓が大きく跳ねる。
見られてしまった。
だというのに、イザドラの顔が嫌悪に歪むことはなく、その唇から拒絶の言葉が出てくる気配もない。それどころか、彼女はなおもエセルバートの体調を案じる言葉を紡いでいる。
一体これは、どういうことなのか。エセルバートは立ち上がったイザドラの手を咄嗟に掴み、問いかけていた。
「……君には、見えて、いないのか?」
「え? あの……何が、でしょうか」
まさか、彼女にはこの鱗が見えていないのか。だとしたら、幻術が破られたと思ったのはエセルバートの勘違いで、幻術は実際に破られたのではなく、破られたと術者自身に思わせ自滅を誘う類の魔除けだったのだろうかと、エセルバートは鱗の露わになった己の手を見ながら、その可能性を探った。
だがエセルバートのそれらの言動は、イザドラの目には奇異なものに映ったらしい。
「大公様。少々こちらでお待ちください。急ぎ衛兵を呼んできます」
青ざめた顔のイザドラが、焦ったように城へと向けて足を踏み出した。
けれど、エセルバートの幻術が現在どういった状態なのか、まだ確認が取れていない。
「待て……! イザドラ嬢……」
エセルバートが待ったをかけた、その時だった。
「大公様~! どちらに行ってしまわれたの~?」
新たに聞こえてきた声に、エセルバートは思わず顔を顰めた。




