016 二人で作る幸せ
「パトリシア! 口を閉じなさい!」
「……っお姉様」
パトリシアが大きく目を見開き、信じられないものを見るように、イザドラを見つめている。大きく美しい瞳には、涙が浮かんでいた。自分に対し、一度も声を荒げたことのない姉が怒ったことに、驚き、怯えているのだ。
「大公様に対して、なんて無礼を……! 謝りなさい!」
「で、でも……」
「謝りなさい、パトリシア! ……王族に対する無礼だけではないの。相手が誰であろうとも、今の言葉は許されないわ」
イザドラの叱責に顔を歪めたパトリシアだったが、しばらくのちに唇を引き結んだあと、口を開いた。
「……も、申し訳、ありませんでした」
小さな声だったが、ちゃんと謝罪はしている。その姿を見たイザドラは、ほっと胸をなでおろした。普段のパトリシアは無神経で、悪意なく人を傷つけることもある。だが、こうして言って聞かせれば、ちゃんとその言葉の意味を理解してくれるのだ。
身分の上の者に対する危うい言動に関しては、これからはもっと厳しくしないといけないだろう。だが、パトリシアの心根自体は、そう悪いものではない。イザドラは、そのことに安堵していた。
「その無礼、イザドラに免じて許そう」
(私に、免じて……)
驚くイザドラの前で、エセルバートが膝を突いた。大公が、侯爵家の令嬢の前に膝を突く。その大事に、イザドラは目を白黒させた。
そして差し出された、赤い薔薇。
エセルバートは確かに、先ほどまで薔薇など持っていなかった。だが目の前には、真っ赤な色をした薔薇が存在している。
さらにはその薔薇はイザドラの目の前で、見る間に赤から黒へと花びらの色を変色させた。
(これ、大公様が幻術で……?)
「これを渡すのは、晩餐会の後に庭園で、と思っていたのだが」
もしこれがイザドラに対する求婚の品だというのなら、確かにここは門前に程近い場所。求婚をするような場所ではない。だが、大公邸の美しい庭園はすぐそこに見えているし、何より、エセルバートからの求婚なら、場所などどこだって良い。
「窓からあの男の姿が見え、焦ってしまった」
まさかエセルバートは、ヘイデンがイザドラをエセルバートに渡したくがないために、二人の婚約を壊しにきたと勘違いしたのだろうか。
確かにヘイデンは自分の都合でイザドラとエセルバートの婚約を止めようとこの場にやってきた。だが、決してエセルバートが思っているような理由ではない。
けれど、たとえ勘違いとはいえ、エセルバートがイザドラに対し悋気を起こしてくれたのだとすれば――。
その事実を認識した途端、イザドラの心臓がにわかに騒ぎ出した。
しかもエセルバートは、こうして趣向を凝らした花束まで用意してくれたのだ。
「黒い……薔薇ですか?」
「純粋な黒ではない」
言葉通り、黒に見えた花びらは、よく見ると濃い紫色だった。
「君のその髪や瞳のように美しく、純粋な黒薔薇は見つからなかった」
エセルバートの言葉を聞いた瞬間、イザドラの頬に血が集まった。
「イザドラ嬢。貴女を、私の妻として迎えたい。どうか良い返事を」
エセルバートは、真摯な眼差しでイザドラを見つめている。
その美しい黄金の瞳を見返したイザドラの胸には、得も言われぬ喜びが湧き上がっていた。だが同時に、思ってもいなかった感情も同時に浮かんできた。
恐怖。
突如浮かんできたその感情に、イザドラは戸惑った。
イザドラは、幸せになると自らに誓った。
彼の想いが手に入らなくとも、幸せになるのだと。
だが、こうしてエセルバートとの幸せな未来が手に入るとなった途端、怖くなったのだ。まるで歓迎されているかのような態度を見せられたことで、邪念の入る隙が生まれてしまった。
イザドラは、不敬にも思ってしまったのだ。
彼のこの想いは、果たして本物なのだろうかと。
震える声で、イザドラはエセルバートに問いかけた。
「……私を妻にと望まれたのは……私が、貴方の秘密を知っているからですか?」
エセルバートの秘密は、今や両親とて知っている。
その秘密はパトリシアの知るところでもあるが、パトリシアは彼の皮膚を見て怖がっていた。問題外だろう。
だから、秘密を共有しているイザドラを、そして彼の肌を怖がらないイザドラを、エセルバートは選んだのではないか。
そう、考えていたのだが――。
「違う。貴女だけに、心を開くことができたからだ」
エセルバートの答えを聞き、イザドラは息を呑んだ。
「思い出したくもない過去を、自分の弱さを、貴女には話すことができた。それはきっと、私と貴方が、似ているからだろう」
そう。エセルバートとイザドラは、似ているのだ。
自分の外見に、引け目を持っているところ。自分を恥じているところ。本当の自分など、誰にも愛されないと思っているところ。
初めて会った時から、どこか似ているものを感じていた。
怒っているのに、怒っていないふり。
すべてを諦めたふりをしながら、実はそのすべてをまだ諦めていない。
自分を見ているようで、辛かった。妬んだこともある。でも同時に、そんな彼の幸せを願ってもいた。彼が幸せになれたら、きっと自分も幸せになれるような気がしたからだ。
「貴女に会って初めて、私は自らの幸せを望めた。それを自分に許すことができた」
イザドラには、想ってくれる父や義母がいた。
無神経ではあったが、イザドラに気を許してくれている、妹がいた。
それでも、心は満たされなかった。自分には価値がない。そんな自分が、誰かの唯一になることはできない。そう思い込んでいたからだ。
エセルバートの過去に比べれば、イザドラの抱える問題など、生ぬるい。
けれど、それでも、イザドラは辛かったのだ。いつも天使のような妹と比べられ、陰気だと蔑まれ、黒い髪や黒い瞳を、不吉だと遠ざけられた。
もっと、別のところに目を向ければいい。自分の良いところを探せばいい。そうは思えど、できなかった。イザドラこそが一番、自分とパトリシアを比べていた。そして、比べるたびに思うのだ。
ああ、自分はなんて、駄目なんだと。
「イザドラ嬢。貴女という存在は、私にとっての幸福そのものだ。誰かと人生を共に生きるなら、私は貴女しかいないと思っている」
けれど彼は、そんなイザドラが良いのだと言う。
エセルバートがイザドラを見つめる視線は、柔らかい。細められた瞳も、緩やかに弧を描く唇も、彼の表情は、間違いなく、イザドラを愛しいと告げている。
これまで父以外に、こんな表情で男性に見つめられたことはない。
「……大公、様」
ようやく絞りだした言葉は、すぐに嗚咽に変わってしまった。何度もしゃくりあげ、涙を拭い、イザドラがなんとか呼吸を整えるまで、エセルバートはずっと静かに見守っていてくれた。
優しい表情で、イザドラを見つめるエセルバート。
その表情に励まされ、イザドラはようやく勇気を出すことができた。
「大公様。貴方を……お慕いしております。貴方のお傍にいることが……私の幸せです」
告げた次の瞬間再び泣き出したイザドラを、立ち上がったエセルバートが優しく抱きしめた。
その後の晩餐会のことを、イザドラは良く覚えていない。
恋する人と想いが通じた喜びと、その過程を家族に見られた気恥ずかしさで、目の前に出された食事を、粗相をしないよう食べるので精一杯だったのだ。虚ろな状態だったと言ってもいい。
だからイザドラが正気に戻ったのは、帰り際馬車に乗り込む際、エセルバートに「貴女と離れるのは寂しい」と、耳元で囁かれた時だった。
エセルバートに出会ってから、あまりにも目まぐるしくイザドラの世界は変わっていった。このような、まるで普通の恋人同士のようなやり取りをする日が己に来ようとは、イザドラは今日この時まで、ついぞ思っていなかった。
たった一言を告げるだけなのに、唇は震え、胸の高鳴りが止まらない。
たっぷりと時間を要してからようやく、家族に見守られる中、イザドラはエセルバートの顔を見つめ「私もです」と囁いた。
本編はこれにて終了です。婚約後の二人については、後日譚で。次話からは、エセルバート視点の番外編が四話続きます。




