014 予想外の一波乱
ゴトゴトと揺れる馬車の中で、イザドラは対面に座るパトリシアの様子が気になっていた。
アドコック家の面々は、現在大公邸で開かれる晩餐会に向かっている。イザドラとエセルバートの婚約の結び直しともいえる重要な食事会なので、家族全員での参加なのだ。
エセルバートの鱗を怖がっているパトリシアは、当初この晩餐会に出席することを散々渋っていた。そのことは心得ていたが、それでも今のパトリシアの表情は、原因がわかっていても心配してしまうほどに青白い。
「パトリシア……気分でも悪いの?」
イザドラの言葉に、パトリシアがはっとしたようにイザドラと視線を合わせてきた。その瞳には、涙が浮かんでいる。
(パトリシア……そんなに大公様のことが嫌なの……?)
これから自分の伴侶となる人のことを、ここまで妹が怖がっていると思うと、イザドラは少しだけ悲しい気持ちになった。そして、もしエセルバートの家族に、イザドラもそう思われていたらどうしようと。
(大公様のご家族って……陛下と、先の陛下だわ……)
あとは、陛下の子どもたちである王族の方々。
深く考えだすと、胃が痛くなりそうな事案だった。
「……お姉様。あの、私……」
パトリシアが何かを言おうとした時だった。馬車が一際大きな音を立て、停車した。大公邸についたのだ。
馬車を敷地内に入れるために、ガラガラと門が開かれる音が辺りに響いている。
その音に重なるように、誰かの声が聞こえた。
「イザドラッ!」
馬車の外から、突如大きな声でイザドラの名を呼ぶ声。その声が何者のものであるかを認識したイザドラは、驚きに息を呑んだ。
(この声……ヘイデン?)
「ヘイデン……」
パトリシアが、ヘイデンの名を呟いた。その態度は、どこかおろおろとしているように見える。
何故ここに、大公邸に、ヘイデンがいるのか。
その思いがけない事実に、ブライアンもベリンダも驚いている様子だ。
何か火急のことがあって、イザドラやアドコックの家の者に、その何かを伝えにきたわけではないだろう。もしそうだとしても、誰か使いの者を寄越せば良いだけだ。ヘイデン個人が来る必要はない。
「イザドラ! いるんだろう、出てきてくれ!」
(さっきから、私の名前ばかり……。私に何か用なの……?)
とはいえ、いかに親戚だろうと、普段とは様子の異なる者の前に出ていくのは憚られる。だがイザドラが出て行かない限り、ヘイデンはイザドラの名を呼び続けるだろう。
(どうしましょう……。出て、理由を聞いた方が良いのかしら……)
イザドラがわずかに、身じろぎをした時だった。
「イザドラ。出ては駄目よ」
ベリンダから、強い口調で止められた。イザドラが外に出ようとしたことが、わかったのだろう。
ベリンダの口調の強さに、イザドラは大人しく引き下がることにした。ちらりとブライアンに視線を向ければ、こちらは難しい表情をしている。
普段のブライアンならば、きっとすぐに馬車から出て行き、ヘイデンに事情を聴こうとするだろう。だが、今はこのままやり過ごすことを選んだようだ。ベリンダにしても、甥であるヘイデンが異常な様子を見せているにも関わらず、心配する素振りすら見せていない。
そのいつもとは異なる両親の態度が、一層イザドラの不安を煽った。
外ではヘイデンとアドコック家の使用人、そしておそらくだが大公邸の使用人とが言い合う声が聞こえてきた。招待客を乗せた馬車が、何者かにその進行を阻まれているのだ。対応するのは当然のことだろう。
(本当に……何をやっているの、ヘイデン……⁉)
大公邸の門前でこのように不審な行動をするなど、正気の沙汰ではない。下手をしたら、ヘイデン個人の問題では済まなくなってしまう。
「お前たちは中にいなさい」
この事態に耐えかねたのだろう、ブライアンがそう言い残し、とうとう馬車の外へと出て行ってしまった。残されたイザドラたちの間に流れる空気は重い。
その重い空気さながらの重たい声音で、ベリンダが口を開いた。
「……パティ、貴女。ヘイデンに、今日の晩餐会のことを伝えたの?」
パティ、と己の名を呼ばれた瞬間、パトリシアの華奢な身体が大きく揺れた。その反応を見たベリンダが、溜息を吐いた。
「パトリシア。今日のことは、ヘイデンに伝えては駄目だと言ったでしょう?」
「つ、伝えてないわ。ただ……お姉様のお相手が、大公様だということは……」
「伝えたのね」
ベリンダの問いかけに、パトリシアが怯えた様子で頷いた。
「だ、だって……。お父様もお母様も、ヘイデンが家に来るのを禁止してしまうし。ヘイデンがどうしても、お姉様に話があるからって……」
パトリシアの言葉の内容に、イザドラは驚いた。
ヘイデンがアドコックの家を出入り禁止になっていたなど、今はじめて知ったからだ。
「何故ブライアンと私が、ヘイデンを出入り禁止にしたと思うの? イザドラや貴女に近づけさせないためよ」
ベリンダとパトリシアのやり取りを見て、イザドラはすべてを理解した。
ミレイユに婚約を解消されてしまったヘイデンは、自身の婿入り先にと、アドコックの家を狙ったのだ。ウェルズリーの家から縁談の申し込みがあったのか、あるいはヘイデン一人がそれを望んでいるのかはわからないが、どちらにしろ、両親はヘイデンがアドコックの家に入ることを許さなかった。だから、ヘイデンは強硬手段に出たのだ。
イザドラの縁談相手がエセルバートだとわかれば、今日晩餐会が開かれることに関しても、知り様はある。極端な話、大公家とアドコック家の動きを見張っていればいい。
馬車が門の中に入ってしまったら、イザドラとエセルバートの婚約は、もう覆すことは難しくなる。だから完全に馬車が門の内側へと入る前に、イザドラから言質を取ろうとでも考えたのだろう。
パトリシアが顔色を悪くしていたのは、おそらくは今夜ヘイデンが大公邸まで来るかもしれないことに思い至っていたからだ。
(従兄だということで、つい気が緩んだのでしょうけれど……)
さすがに来ることを知っていたとまでは思わないが、そのことに気付いてからは、きっとここに来るまで気が気ではなかった筈だ。
「……イザドラ! 頼む、僕を見捨てないでくれ!」
ヘイデンはなおも、イザドラの名を呼び続けている。
(見捨てないでくれって……それはミレイユ様に言うべき言葉だわ)
すでに言った後かもしれないが、イザドラにはその言葉を言われる筋合いはない。
「必死ねえ。まあ、気持ちはわかるけれど」
ヘイデンの場合、アドコック家に見捨てられたら、おそらくもうあとがない。跡取りとしての婿を必要としている家は、そこまで多くはないからだ。
(本来ならヘイデンは、ミレイユ様を大切にしなければならない立場だったというのに……)
ヘイデンは確かに、決定的なことはしでかしていない。けれど婿入り先の将来妻となる令嬢を大切にできないような男など、その結婚によほどの旨味でもなければ、令嬢本人はおろか、令嬢の両親が黙って受け入れる筈はないのだ。
「パトリシア、イザドラを説得してくれ! パトリシア!」
今度はパトリシアの名を叫び出したヘイデンに対し、ブライアンが「いい加減にしないか!」と怒鳴りつけている声が聞こえてきた。
己の名を呼ばれたパトリシアは、今にも泣きだしそうな表情をしていた。パトリシアは、いつも貴公子のような振る舞いをしているヘイデンしか知らないだろうから、今の彼の様子は随分と堪えたのだろ。
(私だって、驚いているもの)
イザドラのことなど好みじゃないと言ったヘイデンが、まさかイザドラにこのように縋りつく日が来ようとは。
それが、ヘイデンにとっての本意でないことはわかっている。パトリシアと婚約できたなら、それがヘイデンにとっては一番良い着地の仕方だったのだろう。だが、それはブライアンとベリンダが許さない。
けれどもし、相手がイザドラだったとしたら――。
ヘイデンは、イザドラが当主教育に準ずる教育を受けていることを知っている。もしイザドラがヘイデンを受け入れた場合、イザドラが補佐をするという名目で、ヘイデンの婿入りは許される可能性があった。
だがそれとて、エセルバートと婚約を結ぼうとしている今となっては、あり得ない話だというのに。
(ヘイデンは、まだ私が自分のことを好きだと思っていたのね……)
「……お義母様。私、ヘイデンと話してみます」
はっきりと、ヘイデンを受け入れるつもりはないとイザドラは告げるつもりでいたのだが、再びベリンダに止められた。
「やめておきなさい。貴女がつきあってやることはないわ」
確かに、イザドラがヘイデンの話を聞く義理はない。だが、イザドラのはっきりとした意思表示なしでは、ヘイデンはいつまでたっても諦めないのではないかと感じたのだ。
「ですが、お義母様……」
その旨を伝えようと、イザドラが口を開く。
するとその声に重なるようにして、凛とした美しい声が周囲に響いた。




