第2話 非常事態と平常運転
「八重さん、冗談ですよね…?なんでそんな事が分かるんですか…?」
大和は、臆病な高校生だった。
オカルトなど信じていない、と普段口にしてはいた。
だがその存在が少しでも現実味を帯びると、その場から動けなくなってしまう。
「何でなんだろうねぇ、これ。空気?みたいな。」
八重の態度は変わらなかった。
ただ先程よりは、少し注意深く周囲を観察しているように見える。
「ちょっと危険はあるかも。大和君はもう帰る?住宅街までは送ってくよ。」
当然大和は、脱兎の如く帰りたい。
だが八重の言葉は、「幽霊がいる」と確信しているような口ぶりだ。
この後、ここで何が起きたのか分からないまま帰るのは、そちらの方がよほど怖くなるような気がした。
「八重さんは、何とかできる、んですよね?」
「うん。別に問題は無いね。」
八重の答え方には、自信に満ちているという以前に、この状況の対処が当たり前であるという日常感があった。
「じゃあ、残ります。このまま何も分からない方が怖いんで…」
「分かった。」
八重の軽い返答に、大和は言葉では言い表せない不安を一瞬感じた。
が、今更気にしても仕方ない。覚悟を決めて、大和は八重の後ろへついた。
工場への入口は、閉ざされてはいなかった。
立ち入り禁止の札もテープも無いどころか、扉すら無い。
入口から見える工場の中は、ドラム缶やら資材やらだけでなく、タバコを詰め込まれた空き缶やら、菓子の袋やらが見える。
得体の知れない怪異だけでなく、物理的な危険まで付きまといそうな状況に、大和は引き返したくなった。
そんな物怖じする彼を知ってか知らずか、八重は躊躇なく工場の入口へと歩を進める。
内部の状況は、外から見えた通り惨憺たる状況とも言えるが、設備だけ見れば、少し入り組んだベルトコンベアが配置されているものの、思いのほかスッキリしていて小ぎれいな印象があった。
「こんな寂れたところで首括るなんて、考えたくないよねー。
見つかりづらいからひっそり逝ける、って事なんだろうけどさ。」
そんな八重の軽口に対して、「死者に聞かれたらどうするんだ」と感じてしまうくらい、今の大和は恐怖に支配されていた。
「…あ。いた。あそこだわ。」
八重は大和へ振り返り、正面のコンベアの終点を指差す。
黒い影、そう見える。
だがそれは、三次元的に直立していた。
人のようにも見えるし、そのくらいの大きさの何かに布を被せたようにも見える。
目で見えているはずなのに、ピントの合わない被写体のように、その影だけがぼやけていた。
大和は反射的に目を見開き、大きく息を吸う。そしてその息が叫びに変わる前に、慌てた八重の手によって口がふさがれた。
「ごめん、君見えるの?」
大和は思わぬ絶叫を防いでくれた八重に心の内で感謝し、震える身体から息をゆっくり吐き出しながら何度もうなずいた。
見える。
霊が。
だがこんな体験は、初めてだった。
「そっか、前もって言っとけばよかったね。ちょっと待ってて。」
八重は大和の口を塞いだまま、黒い影の方を向いたと思ったら、再度振り返る。
「あ、言っとくね。僕もあんな感じの出すけど驚かないで。」
何を言い出すんだこの人は、と思いながら彼を見ていると、八重はコートの内側からナイフらしきものを取り出した。
片手で器用に鞘を外して、ナイフを床に落とす。
次の瞬間、危うく大和はまた叫ぶところだった。
だらんと垂れ下がった八重の手から、あの黒い影と同じような影が落ちたのだ。
その腕の形をした影は、宙でナイフをキャッチし、地面に着地する。
八重の影は触手のようなものを生やし、カサカサと気味の悪い動きで佇む影の方へと走っていく。
コンベアに登った八重の影は大きく跳躍し、佇んでいた影の胸元へ突き立て――音も無く、その影は消え去った。
「うん、感知能力は低いな。面倒事にはならなさそうだ。」
カサカサと八重の影は帰ってきて、八重の身体へと戻っていく。
「じゃ、行こっか。この調子ならサクッと終わりそうだし、ついでにお掃除しちゃおう。」
そう言って彼は歩き始めるが、大和はその場から動かない。
八重が振り向くと、大和は足をぶるぶる震わせて、「まだ無理」と声も出さず懇願していた。
「さっきのあれ、何だったんですか…」
ようやく声を出せるまでに混乱から回復した大和は、八重に質問した。
まだ足は震えて歩けない。
「よく言う怨霊ってやつだよ。あれは比較的思念が薄かったから大して厄介じゃないけど、強くなると物理的に人を殺したりする。
早めに消しちゃった方がいいやつ。」
八重は平然と言ってのけたが、大和はまるで理解が追い付かなかった。
それはそうだ。
今まで生きてきて、あんなもの一度も見た事が無い。
霊が存在するかどうかも眉唾だったのだ。
「ま、僕と行動してる限りは心配しなくていいよ。あの程度なら危害加えられる前に対処できるから。」
自信に満ちたその物言いに、大和は少し安心する。
こんな非日常の中でも当たり前のように人を励ませる彼を、どこかかっこいいな、とすら感じた。
そんな弛緩した空気になった直後、大和の恐怖が舞い戻った。いや、今度は先程とは比にならない恐怖だ。
「や、八重さん。あれも、任せて、いい、ですか?」
視線の先を指差し、息を何とか継ぎながら、声を絞り出す。
彼の言葉に、八重は振り向いた。
「あー、えっと…」
その指差された先には、先程の怨霊とは違う怪物がいた。
怨霊の時に見えた曖昧な影ではなく、曖昧さを取り払い、くっきりと浮かび上がっていた。
その歪んだ肢体、頂点に据えられた丸い頭のようなものを見る限り、人型であるとは言える。
だが手足の長さ、頭の大きさ、全てがおかしい。
極めつけには、頭と呼べる部分には、いくつもの大小の目がついていた。
呪塊だ。
八重は大和を庇うように前に立ち、その姿を注意深く観察する。
「うん、心配しないで。でも、見ない方がいいかも。」
八重たちから呪塊は視界に入っていたが、呪塊の方は八重たちを認識していないようだった。
目は多くとも、その視力は良くないのか。
頭の全方位に備え付けられた目は、忙しなく動き回りながら周囲を観察している。
だがゆっくりと八重が何歩か踏み出した、その時。
瞬時に無数の目は、彼の姿を一斉に捉えた。
彼は呪塊に向かって駆け出した。
真正面から、何の備えも無く、一直線に。
呪塊はその腕を振りかぶり、八重に向かって伸ばす。
槍のように鋭利に変形したその腕は、
八重の胸を何の抵抗もなく貫いた。
大和が予感していた恐怖の激闘も、辛苦の勝利も、起こる事なく。
嘘だ。
心配しないでって、言ったのに。
こんなに呆気なく。
終わった。
次は、俺の番なのか?
何故、この人を信じてしまったのか。
後悔ではなく、恐怖でもなく、自身の判断への疑問の方が先に立ち、脳を支配した。
伸びた腕を呪塊は引き戻し、八重の身体は引き寄せられていく。
だが、目を離せないまま八重の姿を見つめていた大和は、気付いた。
彼の身体は、力を失っていない。
明らかに心臓を貫かれたはずなのに、その手は、呪塊の腕を握っていた。
呪塊が引き寄せたのではない、八重がしがみついているのだ。
「心臓を一発か、良い狙いだ。」
八重はナイフを懐から引き抜く。
そのまま引き寄せ運ばれた彼は、呪塊の顔を横に一閃斬りつける。
声とも呼べぬ超音波のような声が、廃工場に響き渡る。
八重に感じた言い知れぬ不安の理由を、大和は理解した。
この人は、非常事態を受け入れ過ぎている。
その片鱗が無意識に感じられたのだ。
八重についていくという事は、八重の受け入れる非常事態を共に受け入れるという事。
要するに、この人は、ヤバい。
呪塊は腕を振り、八重を投げ飛ばした。
放物線を描いて吹き飛ぶ彼の身体は、間違いなく心臓を穿たれているはずだが、宙で体勢を立て直した彼は、天井の梁へ右腕でぶら下がる。
左腕は力なく垂れ下がっていた。
「もう一発で通るか?」
呪塊の背後を、八重の影が駆け上る。
投げ飛ばされる前に、その影とナイフは床に落とされていた。
そして脳天にもう一度、ナイフが突き立てられる。
すぐさま影はそこから跳ねて距離を取り、呪塊は何個も潰れた目を抑えながら、苦しんでいる。
八重の影が、腕へと戻った。
すると彼は鉄棒の要領で上に登り、梁を蹴り飛ばして呪塊の下へ着地した。
苦しみ続ける呪塊の目の前に立ち、大きく構える。
「もう割れてんだろ?いい加減、吐いちまえよ。」
八重は、呪塊の腹を思いっきり殴る。
呪塊はクロスカウンターのように、八重の顔にアッパーをかます。
その手は最初と同じように、尖っている。
八重は喉から脳にかけて貫かれていたが、気にする様子もなく、呪塊の腕を引き抜き、振り払う。
呪塊は殴られたせいか、ビクンビクンと身体を痙攣させている。
最初にナイフで傷つけた頭頂部から、石のようなものが覗いていた。
「これこれ。大人しく出してくれればよかったのに。」
石を取って、八重はその石を、口に含む。
「よひ。これれおっけー。」
歯で噛んでいた石を、一気に噛み砕いた。
「完了ー!ふー、二回死んだ、かなぁ。」
石を失った呪塊は、力なくその場に倒れ伏す。
コートに大きく空いた穴を見て、八重は大きなため息をついた。




