ep2 変わりゆく空
昼休み。
俺は教室を抜け出して、屋上へ向かった。
ざわつく声や足音から離れ、開けた空間で風を感じるこの時間が、案外好きだ。
高校生のくせに渋すぎる趣味かもしれない。……なんて考えて、自分でも思わず苦笑いが漏れる。
「……俺、じじくさいこと言ってないか……」
ぽつりとつぶやきながら、ベンチに腰を下ろした。
売店で確保したパンの袋を破って、無造作にかじる。
そして、空を見上げる。
青い空、白い雲、遠くに並ぶ高層ビル群。
いつも通りの風景――のはずだった。
……なのに、どこか引っかかる。
雲が、揺らいでいた。
まるで、生きているかのように脈打ちながら。
一つだけ、灰色を帯びた雲が目に留まった。
その中心には、縦に閉じた瞼のような、黒い裂け目が浮かんでいた。
思わず、背筋が冷える。
ぞわり、と肌の奥に氷が走ったような感覚だった。
その雲全体が、呼吸するように、膨らんだり縮んだりしていた。
有機的な動き。
それが、空に浮かぶただの雲とは思えなかった。
「……見間違い、だよな」
自分の声がやけに小さく聞こえた。
非常識な光景を、脳が必死に“理屈”で処理しようとしている。
目の錯覚。寝不足。視覚のバグ。……そんな理論で片づけようとしていた。
もう一度、雲を見直す。
ただの雲に戻っていた。
「寝不足……ついに視覚までやられたか……」
言い訳のように呟きながら、屋上をあとにする。
見なかったことにする。
それが、最も穏便で、最も“普通”な選択肢だと、そう信じたかった。
放課後。
自習時間を潰して仮眠をとったおかげで、少しだけ体は軽くなっていた。
俺は自転車にまたがり、帰路についていた。
風は心地よく、いつもより空気が澄んでいるようにも感じた。
……なのに。
空には、朝よりも明らかに“おかしい”雲が広がっていた。
「……あれ、やっぱりおかしいよな……」
夕焼けに染まる空の中で、ひときわ目立つ黒い雲。
見覚えがある。
屋上で見た、あの雲だった。
膜のようなものに包まれたその雲は、一定のリズムで収縮し、膨張する。
まるで、規則正しく呼吸しているかのように。
中央には縦に閉じた裂け目。
あれは瞼じゃない。
……封印だ。
そんな言葉が、ふと脳裏に浮かぶ。
そして、その裂け目の奥で、わずかに震える光が見えた。
揺らめいている。
息を潜めるように、そこに“何か”が存在していた。
その雲だけが、静かに、けれど確実に蠢いていた。
渦を巻くように裂け目が広がっていく。
まるで内側から何かが、這い出ようとしているように――俺には、そう見えた。
喉が渇いた。
思わず唾を飲み込む。
背中が冷え、掌にじっとりと汗が滲む。
「……なんだろ……変な感じがする」
空気がざわついていた。
目には見えない波のようなものが、街全体を包み込んでいる。
背筋をなぞるような冷気が、じわじわと広がっていく。
遠くでサイレンが鳴った。
救急車か。事故か急病か、それとも――
商店街では、夕飯の買い出しをする人々が行き交っていた。
野菜の値引きに群がる主婦たち。
笑いながら帰路につくサラリーマンの姿。
いつもの日常。
……のはずだった。
でも、俺の中に残る違和感は、拭いきれなかった。
そして――空を、もう一度見上げた。
裂け目が、開いた。
黒い雲の中心が、明らかに意思を持ったかのように動いた。
その奥で、何かがこちらを覗いている。
眩い光が、ひときわ強く瞬いた。
そして、轟音。
空が裂けた。
空間が悲鳴を上げるように大きく歪み、そこから光があふれ出す。
裂け目は一気に開き、内側から黒い靄が流れ出していく。
それは、ただの気象現象じゃなかった。
“異世界”から、何かが、こちらへ足を踏み入れようとしている。
俺は、立ち尽くしていた。
目の前で起きていることから、視線を外せなかった。
そして気づく。
周囲の人間も、誰ひとり動かず、空を見上げている。
言葉を失った。
息を呑む音だけが、静かに響いていた。
そして――
「それ」は、降りてきた。