ep3 迫りくる闇
空から、それは降りてきた。
黒い影。
人のような輪郭をしているのに、そこには“人間”の気配がまるでなかった。
全身を包むのは、漆黒のマントのような闇。
けれど、その内側には何もなかった。空っぽだ。
闇ではなく、欠損。
まるで世界の一部を切り取ったように、ぽっかりと空間から存在が剥がれ落ちていた。
「う、嘘だろ……」
思わず漏れた俺の声が、異様なほど大きく耳に響いた。
体が勝手に震える。
心臓の鼓動が耳の奥で暴れていた。
影の内部に、ふたつの瞳があった。
深い赤。
それは、感情を一切持たない絶対零度の光だった。
まるでこの世界をすべて見透かし、冷たく否定しているように――そんな気がした。
「……目覚めの刻は、すでに訪れた」
声が響いた。
耳ではなく、脳の奥に直接染み込むような、ぞわりとした感覚。
拒否できない音。
影が、音もなく地面へと降り立つ。
その瞬間——
ビルの窓が軋み、アスファルトが波のように揺れた。
空気が震え、耳鳴りが走る。
思考が揺さぶられ、俺の頭の奥で警報が鳴り響いていた。
重い。苦しい。
空間そのものが、異常な密度に押し潰されているようだった。
「なっ……じ、地震!?」
俺は叫んでいた。
けれど、すぐにその言葉が的外れだと気づく。
これは、地震なんかじゃない。
自然の揺れじゃない。
この世界そのものが、“あれ”の存在を拒んでいる。
空間が、重力が、空気が、法則が――すべてが悲鳴を上げていた。
振動が収まると、人々がようやく動き出した。
誰かが叫び、誰かが転び、誰もが逃げ惑っていた。
だけど、俺の足だけは、地面に縫いとめられたみたいに動かなかった。
体が言うことをきかない。
目の前にいる“それ”から、目を逸らすことができなかった。
逸らしたら、俺はもう俺じゃなくなる。
そんな気がした。
影が、ゆっくりと腕を上げた。
その動きは、儀式のように静かで、無駄が一切なかった。
次の瞬間——
指先から、闇が放たれた。
それはただの黒じゃない。
光を呑み、空気を凍らせ、音をかき消す――絶対の暗だった。
地面にひびが走り、空間がきしむ音がした。
その範囲だけが、別の次元へ飲み込まれていくみたいに見えた。
そのとき、俺は――悟った。
このままじゃ、世界が壊れる。
「逃げなきゃ……!」
恐怖を押しのけて、ようやく足が動いた。
けれどその瞬間、影の指から放たれた闇が、まっすぐ俺めがけて飛んできた。
腰が抜け、体が崩れ落ちる。
反射的に、腕で顔を覆った。
終わりだ、と思った。
ここで、すべてが終わるんだと。
——そのとき。
「危ないっ!」
鋭く、けれど芯のある女性の声が、背中を突き抜けた。
次の瞬間、背後から突風のような力が俺を押し、
よろめきながら前につんのめるように倒れ込んだ。
倒れた俺の目の前に、誰かが立っていた。
金色の髪が風に舞い、
銀の甲冑が光を反射して輝いている。
左手には、光を帯びた剣。
その背中は、ただ“強い”だけじゃなかった。
美しくて、決して崩れないものを感じさせた。
さっきの声は、きっと彼女だ。
そう思うだけで、胸の奥に確かなものが灯る。
凛とした高い声。
透き通っていながらも芯があり、どこか威厳を感じさせる響き。
その立ち姿には、言葉では表せない風格があった。
彼女はただの勇者なんかじゃない。
きっと――戦場をくぐり抜けてきた者にしか纏えない、何かを纏っていた。
刃のように鋭く、けれど、どこか温かみすら感じる音色。
気づけば、視線が離せなかった。
その姿は、美しさと強さの化身のようだった。
エリシア——
異世界から来た戦士が、
俺を守るように、影の前に立ちはだかっていた。




