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終わらない世界大戦

 ニキチッチの言っていた店は、倉庫を出て徒歩10分ほどのところにあった。

 それなりに大きい飲み屋で、昼間だというのにかなりの人がいた。


 彼女が予約していたのは窓付きの個室であり、テーブルと椅子がぽつんと置かれている寂しいものであったが、ニキチッチが持ってきたモノをテーブルに置けば少しは空気が変わる。


「俺は白だ」


「貴様は本当に白ばかり選ぶな。では、吾輩は黒でいこう」


 そう、チェス。

 ニキチッチが持ってきたのは手作りのチェス盤と駒であった。


 ナイフ1本で作ったというから、すごい。

 器用なものだと感心したスコルツェニーであった。


「久しぶりに会ったんだ。まずはくだらん思い出話に花を咲かせよう」


 席に着き、白いポーンを動かしながらニキチッチは言った。


 スコルツェニーもそれに応じて、ポーンを動かす。


「思い出話……ベルリンのことか?」


「ああ。俺が侵入して名誉の死を遂げた場所だ」


「いいや、違うね。行き場を失ったどら猫が迷い込み、人様に危害を加えて殺処分された場所というのが正しい」


「言ってくれるな、中佐」


 ニキチッチはニヤリと笑って別のポーンを動かす。

 対して、隻眼の中佐は仏頂面だ。


 大柄なスコルツェニーに比べ、銀髪の女スパイは人形のように華奢な体つきで、かつ小さい。

 これでも30手前らしいが、やはり10代の少女にしか見えなかった。


 それでもスコルツェニーが要求を呑んでチェスをしているのは、彼女の恐ろしさを十分に心得ているからだ。


「あの時の銃は持っているのか?」


「ん? ああ、あるぞ」


 チェスの駒から手を離し、ニキチッチは愛銃を取り出す。


挿絵(By みてみん)


 回転式拳銃、ナガンM1895。

 しかし、そこにあるのはただのリボルバーではなく、銃身を改造して銃剣を合体させた、非常に不格好で尚且つ悍ましい姿のリボルバーであった。


「……相変わらず禍々しい武器だ。悪趣味にも程がある」


「俺にはトカレフなんて似合わない。ガラじゃあないからな」


 ニキチッチが銃をしまったところで、チェスを再開する。


「"ニキチッチ"。ロシア、ウクライナの伝承に残る英雄。その名を騙るソ連兵が、偵察中の小隊を全滅させたと聞いた時、吾輩は酷く驚いた。心臓は早鐘を打ち、ワクワクが抑えきれなかった。どんな奴だ、どれほどの強さだ、気になって仕方がなかったよ」


「ふぅん。んで、いざ会ってみて落胆したか?」


「いいや。むしろ更に興奮したな。小隊を全滅させられる程の実力を有する女など前代未聞だった」


「俺だけの力じゃあないさ。最高の狙撃手、ドフチェンコがいたからだ」


「あの小僧はドフチェンコというのか。あの狙撃の腕は大したものだった」


 ドフチェンコ。


 ドイツに彼女が潜伏していた時には常に同行し、多くのドイツ兵を葬った男だが、スコルツェニーは彼の名を知らなかった。


 言葉を交わしながら、駒はどんどん動いていく。

 横2列に整列していた駒の群れは、あっという間にくちゃくちゃな配置になり、さながら中世の騎士達が入り乱れて戦っているかのようであった。


「俺も、あんたのことを死にかけのナチ党員から聞いた時は正直そそったよ。独ソ戦で戦死したとでっち上げられ、党内にも死んだと思っている奴らが大勢いるおかしな男。ムッソリーニの救出や、常軌を逸した撹乱作戦、その他連合軍への破壊工作を行ったコマンダー・スコルツェニー。銃火を交えてみたいじゃあないか」


「オットーを間違えて襲撃したろう?」


「あれは不覚だった。おまけに逃げられたしな。苗字が同じどころか経歴や功績が似通っているのが悪い」


「奴はウィーン生まれだが吾輩はミュンヘンだ。彼はいい奴だったが、苗字が同じなのはちと面倒だったな」


 イタリアやバルジで行動を共にしたオーストリア人将校の顔を思い浮かべ、スコルツェニーはニヤリと笑う。


 その笑みのまま、スコルツェニーはポーンを前に動かしてニキチッチの白いポーンを倒した。


「あっ」


「さて、ベルリンの話だったな。話せよ、ドブルイニャ・ニキチッチ」


「……チッ。俺がベルリンに入った理由、覚えてるか?」


「総統閣下の暗殺だ。スターリン直々の命令だと自白したよな? だが、貴様の手段は全く"暗"ではなかったぞ? 堂々と兵士を殺しまくりながら、ベルリンに近づいてきた」


「堂々とやろうが陰湿にやろうが、暗殺は暗殺だぞ、中佐。それはそうと、俺は総統の首を吹っ飛ばすためにベルリンに入った。まあ、初日に派手にぶっ放したから、すぐに厳戒態勢になってしまったが。あの時のベルリンの光景には興奮した。たった2人の暗殺者を相手に、何千人もの兵士が動員される滑稽さ。絵画にしてやりたかったくらいだ。是非とも、伍長閣下に描いて頂きたかったな」


 白のビショップがスコルツェニーのポーンを討ち取る。

 お返しだ、と言わんばかりにニキチッチはニンマリとして、討ち取った駒をボード上からどかした。


「……ヌゥ……」


 睨んでくるスコルツェニーを無視して、ニキチッチは続ける。


「SSが街中に展開してピリピリしてる中でも、俺とドフチェンコのやり方は変わらなかった。白昼堂々と部隊を襲撃した。俺は近距離でピストルと銃剣を振り回し、ドフチェンコは俺に当てないようライフルを撃つ。ただそれを繰り返した」


「覚えている。覚えているぞ。貴様によって受けた損害を聞くたびに感じたあの不快感も、言いようのない興奮も、全て覚えているぞ……」


「俺も覚えている。特に、お前と戦ったあの夜は忘れられないよ」


「貴様を包囲するのは簡単だった。潜伏先の宿は楽に割り出せたし、人手を集めるのにもそう時間はかからなかった。向こうがどんな策を打ってこようと、対応できた。だが……」


「……ああ、そうさ。俺に作戦なんてない。目の前に敵がいたら、ドフチェンコを後方に配置して俺が前に出るだけだ。あの夜もそうだった」


「貴様は『何度も何度も柵に体当たりして外に出ようとする屈強な雌牛』だった。柵は頑丈で、破ろうにも破れぬ代物であった。だが、それ以上に雌牛が屈強だった。そうした状況で吾輩が講じた策を覚えているか?」


 白のクイーンが黒の駒の群れに包囲されたのを見て、ニキチッチは目を細める。


「ああ。お前は、何重にも柵を張り巡らせた。10人を突破すれば20人に道が封鎖され、それを越えれば今度は50人に包囲された。実に実に……腹が立った」


 スコルツェニーも、ニキチッチも、はっきりと覚えている。

 何なら、昨日のことのように思い出せるのだ。




 兵士の死体で埋め尽くされた宿周辺の道路。

 弾丸がガラスを貫通し、運転手を喪ったことで動けなくなったトラック。

 血がいたるところに付着して、この場で起きた惨禍を物語る。


 怒号が飛び交い、銃弾が交錯し、哀れなSS隊員が銀髪の女の攻撃で伏していく。

 ブィリーナの英雄は踊り狂って笑い、寡黙な大男は機械のように狙撃を続ける。

 SS中佐は冷静に作戦を続行し、あろうことか自ら最前線へ躍り出た。


 交差点のど真ん中で対峙する2人。

 弾を撃ち尽くすまで撃ち合い、銃剣を持った近接戦闘に突入する。


 激戦の中、響き渡る砲声。

 ニキチッチの注意が逸れる。


 戦車砲が、狙撃手の隠れる建物を木っ端微塵に吹き飛ばした。


 その瞬間に、勝敗は決した。


 スコルツェニーの左手が取れ、矢尻が顔を出す。

 呆然とするソ連兵へ、毒矢は放たれた。




 しばらくの間、駒は動かなかった。


 2人はただただ黙し、1944年のあの日に思いを馳せる。


 独ソの大戦争の中でのあの日は、大々的に歴史に刻まれるわけでもないほんの僅かな一幕。

 だが、このスコルツェニーとニキチッチにとってはあまりにも大きすぎる意味を持った1日であったのだ。


「……毒でやられてダメになった右腕も、今はこの通りだ」


 おもむろに言葉を発したかと思うと、ニキチッチは右手をひらひらさせた。


「牢屋で死ぬほど願ったことが、叶ったんだよ。万全の状態で、お前と戦って勝ちたい。もしや神は実在するのかもしれないな。完璧に叶えてくれた。しかも、成長したドフチェンコというおまけ付きだ」


「我々とまた、戦うと?」


「そうだ。お前らは鍵とやらを狙っているらしいが、俺達も狙う。なぜなら、お前が狙っているからだ」


「……何故知っている」


「金で雇った男から聞いた。いや、そんなことはどうでも良くてだな、俺が言いたいのはお前に勝つ方法ならいくらでもあるってことだよ。力比べだけじゃあないんだ。鍵の破片を手に入れるのは俺だ。お前を出し抜いて願いを粉砕してやる」


「そのようなことが、できるというのか?」


「ああ。できるぞ」


「……」


「ドフチェンコの話じゃ、1945年に日本が降伏して大戦は終わった。だが、俺にとっちゃまだだ。お前もそうだ。俺達の世界大戦は、まだ終わっていない」


 また沈黙。


 やはり、駒は動かなかった。




 ★★★★★★




 さて、場所は店の外に移る。


 先程、2人のいる部屋は窓付きであると述べたが、その窓にへばりつくように聞き耳を立てている者達がいた。


「意外と防音がしっかりしているな……。ハインツ、聞こえるか?」


「……ダメですね。チンケな店ですが、プライベートを守ることに関しては5つ星です。音が全く漏れ出てきません」


 ユークリウスは苛立たしげにため息をつくと、さらにべったりと僅かな隙間に耳を押し当てる。

 ハインツはというと、壁から猫耳を離して呆れの混じった視線を青年将校に投げていた。


「もう、こんなことやめたらどうです? ユークリウス中尉は心配性過ぎますよ」


「やかましい! 私はあの共産主義者が信用できないのだ! あいつが中佐に何をするかわかったものではないだろうに! それにハインツ特務大尉! 貴様も真剣な顔つきで着いてきただろうがッ!」


「この顔つきは生まれつきです」


 特務士官への蔑みを隠そうとしないユークリウスへ冷たい視線を遣ってから、ハインツは背後に立つ大男を振り返る。


「貴方は、ユークリウスと仲良くやれそうですね」


「馬鹿を言うな。ナチスと仲良くなんかできるか」


 ソ連軍の大男こと、ミハイル・アントーニー・ドフチェンコはライフル銃を肩に担いだままハインツを見下ろしていた。


「そうですか。心配性同士、仲良くなれそうなものだと思いましたが」


「俺は心配性なわけじゃあない。ニキチッチを守るのが、俺の役割だからだ。ベルリンで果たせなかった任務を、俺はこの世界で完遂する必要があるのだ」


「それを言うなら私だって、中佐をお守りするという任務の元にここにいるんだ。決して極端に不安がっているわけじゃないぞ」


 ユークリウスの言葉は無視され、ドフチェンコの語りは続く。


「お前達のような異世界人にはわからない地名だろうが、俺達はベルリンでナチスと戦った。たった2人でだ。これまでも2人でなんとかなってきたから、今回も上手くいくと信じて疑わなかった。だが、ニキチッチはあそこにいる眼帯の将校にやられた」


「……以前、中佐から聞きました。たった2人で大部隊に立ち向かった共産主義者がいたと。今わかりましたが、それは貴方達のことだった」


「……そうだ、その共産主義者は俺達だ。ともかく、俺は助けられなかった。狙撃手という立場上、ニキチッチとは離れた位置にいたこともそうだが、何より大砲をぶち込まれて瓦礫に埋もれていたんだ。抜け出した頃にはもう、ニキチッチはトラックに乗せられて……」


「収容所を襲撃したりはしなかったのか?」


 今度のユークリウスの言葉は無視されなかった。

 ドフチェンコは苦い顔をして俯く。


「俺はニキチッチがいて輝く狙撃手だ。1人では何もできない。1対1ならまだしも、大勢とタメを張るならニキチッチがいないと無理だ」


「体格に似合わず気弱なんですね」


「『常に裏方であれ』が俺のモットーであり、俺を形作るモノだ。常に目立つ表があるなら、光の当たらない裏も必然的に生まれる。俺はその裏なんだ…………まあ、こんなことを言って気弱で臆病な自分を誤魔化しているというのは否定できん。実際、俺はニキチッチが閉じ込められている収容所に攻め込むことはできなかった」


「……」


「俺は結局生き延びて、世界大戦の後も軍に残った。気づけばニキチッチの階級を追い越して、国の崩壊を見て、そして死んだ。目が覚めたと思ったら、知らない街の中にいて、隣にはニキチッチがいた。俺は必死に彼女に詫びた。だが、ニキチッチは俺を責めずに、なんと赦したんだ。大笑いしながらな」


 ここで、ドフチェンコは言葉を切ってため息をつく。

 ハインツとユークリウスはすっかり彼の話に聞き入ってしまい、盗み聞きのことなど頭から抜け落ちていた。


「俺の目的を教えてやろう、クソナチ共。俺の任務はニキチッチを守ることだ。そして、それが目的だ。前は守りきれなかった。だが、こうしてチャンスが与えられた。だったら、全力を尽くすのが最善だろう。だから俺はここにいる。ニキチッチを決して、もう死なせない」


「うん。俺は頼もしい部下を持った。幸運とスターリンに感謝しなければならないな」


 突然、3人の中の誰でもない声が割り込んできた。

 ドフチェンコはガバッと顔を上げ、黒鯨の2名はビクッと肩を震わせ、恐る恐る振り返る。


 全員の視線が窓に集中する中、ニキチッチは満面の笑みで軍帽を手にし、団扇のように扇いでいた。


「スコルツェニー、お前もいい部下を持っているな。お前が俺に殺されないか心配して、2人ともここまで着いてきてくれたんだぞ。重宝してやれよ」


 ニキチッチの背後から、スコルツェニーが顔を出す。

 その瞬間、ユークリウスは「ふぉわあぁぁ!」と情けない声をあげて直立し、敬礼した。

 ハインツは呆れ気味に彼を見遣りながら、自身も敬礼する。


「ハインツくん、そしてユークリウスくん。君達の忠誠心の高さはよくわかった。感謝すると共に、吾輩の身には何もなかったことを伝えておく」


「は、はひぃ!」


「ただし、盗み聞きはもっとこっそりやるものだぞ。こちらから終始丸わかりだった」


「…………不覚です」


「中佐殿! 会談の方はどうなりましたでしょうか! 進撃ですか! 撤退ですか! それとも市街戦ですか!」


「撤退だよ、ユークリウスくん」


「「…………はい?」」


 ハインツとユークリウスの声が重なった。

 スコルツェニーはやれやれと言わんばかりに首を振ってから話し出す。


「彼女と話し合った結果、両軍の撤退という形に落ち着いた。我々はすぐにここを撤退し、前哨基地へと戻る」


「俺達もだ、ドフチェンコ。トレジャーハントはまた今度だ」


 ドフチェンコは素直に頷いたが、納得はいっていない様子だった。

 ハインツとユークリウスの2人だけが、困惑したままだった。


「2人とも、混乱するのはわかるがここは従うのだ。ここでソ連軍と戦っては出す必要のない損失を出すことになる。それは向こうも同じだ。だから、ここは一旦双方共に退くことにした」


 上官から従えと言われて拒否するわけにもいかないので、2人は撤退を受け入れたのだった。




 ★★★★★★




 場所はさらに変わって、スコルツェニーらが居る店からちょっとばかり離れた位置にある食堂。


 ニルナ、ベロニカ、シグマの3人はテーブルを囲んで約束の食事をとっていた。

 ただ、彼女達の周囲の空気はどことなくどんよりしており、フォークやスプーンを持つ手もなかなか動かない。

 その原因は、先程までいた駅でのゴタゴタにある。


 左手の鉤爪でリンゴを突き刺し、乱暴に齧りながらニルナがぼやいた。


「あーあ。あの駅員、ガミガミうるさいんスよ。気分ダダ下がりッス」


「駅員を殴ったニルナが悪いよ。僕とシグマまで嫌味を言われちゃったじゃないか」


 食事中も鎧を外さないベロニカのため息に被せて、シグマが怒りの咆哮をあげた。


「ニルナ! あんたのせいでベロニカちゃんが不幸になって、ため息までついちゃったじゃないの! どう責任取ってくれるわけ⁉︎」


「ため息ぐらいで大袈裟ッスね、アンタ!」


「大袈裟ですって? ハッ! やっぱりあんたには理解できないようね。ベロニカちゃんがどれだけ不幸なのか、私がどれだけベロニカちゃんを愛しているか! まるでわかってないわ。愛する人にはため息ひとつ吐かせちゃいけないのよ」


「彼氏いない歴が年齢と同じのあたしにはわかんないッスねえー」


「あんたの場合、トゥピラに似たような感情抱いてるんじゃなくて?」


「いやあー、先輩に関しては、愛してるってのはちょっと違うと思うんスよ。尊敬してるっていうか……」


「……ごめん、尊敬はちょっとわからないわ」


「その言い方酷くないッスか? トゥピラ先輩がいたら多分泣いてるッスよ」


「駅の話からどんどんかけ離れていくなぁ……」


 テンション下がりまくっていたくせに、全く関係のない話題で盛り上がり始めるニルナとシグマに、ベロニカは苦笑いする。


 暗い空気がなくなったことは喜ばしいのだが、彼女としては少し複雑な部分もあった。


 小声で呟く。


「……愛が重たい」


 その後もしばらく愛やら尊敬やらの話題で盛り上がっていた2人だったが、急にニルナが椅子を引いて立ち上がった。


 ベロニカが尋ねる。


「どうかしたのかい?」


「水。喉渇いたんで汲んでくるッス」


「あ。私のもお願いできるかしら?」


「じゃあ、僕のも。自分で運んだらこぼしちゃいそうだし」


 ニルナが返事をする間もなく、2つのカップがトレイの上に乗せられた。




「あーあ。…………あーあ」


 1度迷惑をかけているため文句を言うことはせず、だが何度も嘆息することで不満を発散しながら、ニルナは水を汲むために店の奥へ移動した。


 テーブル群を抜けた先にはカウンターがあり、数名の店員とここの店主が待機している。


「ルウェイオスさーん、水おかわりー」


「あいよ」


 カウンター席に座る店主のルウェイオス氏が応じる。

 ルウェイオス氏は若い頃冒険者をやっていたが、任務中に大怪我を負って引退した。

 そのお陰で、彼の右足は木製の義足になっている。


 引退後に結婚し、娘が産まれたのを機に店を始めたのだが、その娘というのがベロニカである。


「いつも、娘と仲良くしてくれてありがとうな」


「冒険者同士ッスから。あの仕事は助け合いが肝心ッスよ」


 そう笑顔で応じてから、ニルナはちらっと横を見た。


 カウンターの側で、エルフの男達が楽しそうに駄弁っている。

 勘定を済ませたばかりなのだろうか、それとも今からなのか。


 ニルナの目は、長髪のエルフがズボンのポケットに突っ込んでいる財布を捉えていた。


 ルウェイオス氏が水を汲むために店の奥へ引っ込んだのを見計らい、ニルナは彼らにそっと近づく。


「エルフのお兄さん。このお店は初めてッスか?」


「ん? そうだね。初めて来たよ」


 エルフ達は特に気を悪くすることなく、笑顔で応じる。


「とても美味しかったな、そうだろう?」


「ああ、今度はもっとたくさんの友達を連れて来たいな」


「それは良かったッス。実はここ、あたしの友達のお父さんが経営してる店なんスよ」


「本当かい? じゃあ、君はこの店に近しい人間なわけだ」


「お兄さん達が次来た時に割り引いてくれるよう、掛け合ってあげてもいいッスよ?」


「あはは、それはいいな」


 エルフ達とのお喋りはしばらく続いた。

 やがて彼らは話を切り上げ、帰り支度を始めた。


「僕達はそろそろ行くとするよ」


「そうッスか。それじゃあ、またいつか〜」


 ニルナが手を振ると、エルフ達も爽やかな笑みで手を振り返した。


 出口へ歩いていくエルフを見送り、彼らの姿が完全に消えると、ニルナは腰のポケットに手を伸ばす。

 その手は厚みを持ったモノに触れ、少女をほくそ笑ませる。


「ふっふっふ、チョロいッスね」


 エルフ達と話している間にこっそり盗んだ財布だ。


 ニルナは財布をポケットから引っこ抜き、フックで器用に開封して覗き込む。


「さーて、幾ら入って……あれ?」


 ニルナの顔から嬉々とした表情が消える。

 財布の中に紙幣や硬貨は入っておらず、代わりに1枚の紙が入っていたのだ。


 紙にはびっしりと何かが書かれていたが、ニルナにそれを読み取ることは不可能だった。

 書かれているのは王国の公用語であるヒト語でも、エルフ語でもなく、よくわからない記号の羅列であったからだ。


 その記号のどれもが子供の落書きのように歪で、彼女の目には気色悪く映った。


 紙を見つめたまま突っ立っていると、不意に肩を叩かれて振り返る。


 心配そうな表情のベロニカが立っていた。

 こっちに来る時に誰かとぶつかったのか、鎧の肩が水で濡れていた。


「どうかしたの? 戻りが遅いから心配したよ」


「ベロニカ、いいところに。これ、何かわかるッスか?」


「ん? どれどれ……」


 ニルナから紙を受け取った瞬間、ベロニカはその場で固まった。


 紙に書かれた記号の羅列を凝視し、何度も何度も読み返す。


「これって……」


「え? 何かわかったんスか?」


「すごいことがわかった。ニルナ、今すぐギルドに行こう。いや、警察か軍の方がいいのかな……? とにかく、シグマとパパにも伝えてくる」


 その口調は焦りを隠そうともしない早口であり、テーブルへと戻る時も落ち着きがまるでなかった。

【ドブルイニャ・ニキチッチ】

口承叙事詩『ブィリーナ』に登場するロシア・ウクライナの英雄。3つの首を持つ竜"ズメイ・ゴルイニシチ"を打ち倒し、ウラジーミル王子の姪プチャチーチナを救い出したエピソードは有名

本名不詳の赤軍士官は、この英雄の名を騙り、敵を殺し続ける

既にズメイはいなくとも、"ニキチッチ"の物語は終わらない

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